通俗的な小泉批判とは違うベクトルからの批判
小泉純一郎氏が首相を辞めてから久しいが、政界では相変わらず小泉批判が盛んである。
それは民主党に代表される野党からだけでなく、本来身内の自民党からの批判も盛んだ。
これだけ多くの政治勢力から批判される人物も珍しいが、その人物こそ、当時支持率80%を誇り、擬似的ながら、国民が選挙によって選んだ首相だった。
その重みは、小泉氏以降の、安部・福田・麻生といった歴代の首相にはない。
当時、氏が語っていた「小さな政府」と「民間でできることは民間に」というこの二つの政策は大いに支持されたわけだし、今でもその思想は生きている。
小泉構造改革とは、いわばアメリカ型の市場経済原理主義的な資本主義のことである。
だからこそ、この様な流れは、別に小泉氏によって作られたわけではなく、中曽根氏の時代から延々と続いてきた「民営化」の流れを更に徹底したに過ぎない。
しかし、その徹底こそが難しかったわけで、郵政民営化に代表されるような「民営化」という流れは、時代の必然だったとも言えるし、また我々はその恩恵を知らず知らずのうちに受けているはずなのだ。
民営化という発想がなければ、電話会社は今でも電電公社の専業だった可能性すらある。
NTTDoCoMo、AU、ソフトバンク、ウィルコム、イーモバイルといった同業多種の企業が存在しなかったであろう。そこには競争もなく、相変わらず高い値段の携帯電話ばかりで、今、庶民が携帯電話を持てるような時代にはならなかったかもしれない。
市場原理主義的な資本主義が万能でないことは承知している。限界があることも承知している。格差社会の元凶だという批判が間違っているとも思っていない。多くの経済学者が、このアメリカ型の市場経済原理主義を批判の対象にしていることも知っている。
それらを全て認めつつも、私は、社会全体を底上げした効果を持って、市場経済原理主義的な動きを一定評価している。
その上で、あえて批判を加えるなば、私はその不徹底ぶりを批判する。
小泉構造改革が目指したアメリカ型の市場経済原理主義には、本来アクセルとブレーキの二つの役割があった。
しかし、これは日本に限らず、アメリカ型の経済を模倣しようとするアメリカ以外の全ての国に共通して言えることだが、そのアクセル側しか真似しようとしなかった。そこで私は、日本においても、アメリカ型の市場経済原理主義を導入するのならば、やはりブレーキの方も真似るべきだと主張する。ブレーキとは、巨大化する企業に対するブレーキである。
それは大きく言って二つある。
① 企業に対しては、懲罰的賠償制度を認める。その過程にあっては、陪審員裁判を復活させ、一般庶民の常識が判決に反映されるようにすることが重要である。
一般庶民の常識とは何か。それはより立場が弱い人に対してこそ、手厚く保護を行うというものである。セクハラ裁判で賠償金数億円ということも珍しくなくなるだろう。
大企業と中小企業ならば、中小企業を優遇する。企業対個人ならば、個人を優遇する。男性対女性ならば、女性を優遇する。大人対子どもならば、子どもを優遇する。
この様な庶民の常識が、裁判に反映されることによって、市場経済原理主義によって、暴走しがちな企業に対して、懲罰的賠償制度をもってして、一定のブレーキをかけることができる。
② 独占禁止法を厳格に適用する。一企業の財産であったとしても、それが代替不可であり、ほぼ100%の市場占有率があった場合は、これを公共物として扱う。
この合意があって初めて、NTTの回線は、他の電話事業者にも開放されたのだ。
市場にあって、公正な競争を担保するためには、新規参入する企業に対して、その障害となる古参の企業が持っている既得権を制限させたり、放棄させたりすることを政府が積極的に行う必要があると言うことだ。
この様なブレーキをアメリカから学び、取り込んでこなかった日本の経済システムは、その不徹底ぶりから、まだまだ批判の対象にすべきなのである。
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2009年03月10日