とんでもございません。
この前もあったのですが、街頭活動をしていたりすると、教育の問題について区民から質問を受けることがあります。
「子どもの人権についてどのようにお考えですか」
「義務教育における早期英語教育についてどのようにお考えですか」
たまたま目の前にいた身近な区議会議員として、聞きやすかったというタイミングの問題でしょうが、質問に対して、あまり語れるだけの知識や見解を持ち合わせず、恐縮してしまうことが多々あります。
街頭活動中ですと、たっぷりお話しする時間もなく、せいぜい2~3分の立ち話なので難しいことですが、質問と同時に、ご本人のご見解についても少しお話いただけると助かります。
他の議員さんに失礼なので、私だけに限った話かも知れませんが、議員と言っても、全てを知っているわけでもなく、全てについて見識があるわけでもなく、全てについて態度がハッキリしていると言うことでもありません。
国会議員のように、時にその場で政党の代表者としての意見を求められるような方々ならば別かも知れませんが、私は知らないことに対しては知らないとお伝えする人間です。
せっかく何かを答えてくれると思って質問しても、こんな答えしか返ってこないようでは、がっかりされる区民も多いかと思いますが、何とぞ日頃の不勉強をお許しいただきたく存じます。
さて、早期英語教育のご質問を受けたときのことです。
その質問には直接お答えしませんでしたが、私は英語教育の是非よりも、日本語教育をしっかりした方がいいとお答えしました。自分の興味関心も、そちら側にあるとお話ししました。
これからの国際社会では、英語が重要になってくることでしょう。それは否定しません。必須科目として、ますます注目されること間違いなしです。
でも、私はあえて日本語教育の重要性を説きます。
英語は、自分が勉強しようと思えば、駅前に行っても勉強できます。何度か海外旅行でもすれば、嫌でも少しは覚えてしまうものです。
しかし、日本語は小中高でしっかりと勉強しなければ、正しい日本語が身につきません。
日本語が乱れていると否定的に考える方と、いや言語はそもそも生き物だから、「乱れている」のではなく、変化は進化だとして、日本語の乱れを肯定的に考える方が世間にはいます。
最近流行の、KYなる言葉も、その中で生まれてきた言葉です。今、私はどちらの立場にも立ちません。肯定でも否定でもない立場なのです。
そんな私であっても、ハッキリ言えることがあります。日本で産まれ、日本で生活していく以上、正しい日本語を(少なくともビジネスでは)使って欲しいということです。これは極めて大切な教育の問題です。
本日、ある会社さんに電話連絡をしたところ、対応されたオペレーターの方に最後になって「とんでもございません」と言われてしまいました。
電話を切ったあと、とてもがっかりした気分になりました。
正確な表現は「とんでもないことでございます」
または少し砕けた言い方で「とんでもないことです」
どちらかが良いでしょう。
「とんでもない」とは、「とんでもな-い」に分割できます。
「とんでも-ない」ではありません。
「とんでも-無い」が正しいとすれば、「とんでも-有る」という言葉がなければなりませんが、「とんでも-有る」という言葉が無いので、「とんでも-無い」も存在しないという背理法的証明です。
「危ない」とは「あぶな-い」であって、
「あぶ-無い」や「あぶ-有る」とは言わないのと同じことです。
全く同じ理由で、「あどけない・おぼつかない・かたじけない・みっともない・せわしない・はしたない・切ない・勿体ない」などの言葉もあります。
乱れた日本語も時には、面白可笑しくて、嫌いじゃないですが、せめてビジネス用語としては、正しい日本語を使える日本人になっていただきたいです。
(※ 一部「とんでもございません」を正しい日本語として認めるべきだと主張される方もいらっしゃいますが、今の私はその主張を採用しません)
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2009年04月09日