科学を盲信することなかれ
東京新聞のネットニュースから。
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栃木県足利市で一九九〇年、保育園児=当時(4つ)=を殺害したとして、殺人罪などに問われ、無期懲役が確定した菅家利和受刑者(62)が無罪を訴えている再審請求の即時抗告審で、東京高裁が嘱託したDNA型の再鑑定の結果、園児の着衣に付着した遺留物と菅家受刑者のDNA型が一致しなかったことが分かった。東京高裁が正式な鑑定書の提出を受け、再審の開始を決める可能性が出てきた。
菅家受刑者の無期懲役が確定した二〇〇〇年の最高裁決定は、DNA型鑑定の証拠価値を初めて認め、有罪の有力な決め手としていた。
関係者によると、今回実施された検察側と弁護側がそれぞれ推薦した鑑定人の鑑定結果が、いずれも遺留物と菅家受刑者のDNA型は不一致と出たという。鑑定人からの報告書は月末にも東京高裁に提出される見通しという。
再審請求をめぐっては、弁護側が菅家受刑者の毛髪を取り寄せて、最新技術で鑑定し、有罪の根拠となったDNA型と異なる結果を示した新証拠などを提出したが、宇都宮地裁で棄却され、東京高裁に即時抗告。高裁が昨年十二月、再鑑定の実施を決めていた。
菅家受刑者は任意の調べを受けた当初、容疑を否認していたが、DNA型が一致していることを取り調べで指摘された後に認める供述を始めた。一審の公判の途中から無罪を主張。最高裁は二〇〇〇年七月、DNA鑑定について「科学的に信頼できる方法で実施され、信用できる」と判断した。
そのうえで「科学技術の発展で、新たに解明された事項なども加味して慎重に検討されるべきだが、このDNA鑑定を証拠として用いることが許される」として、一審の無期懲役が確定していた。
弁護側は「当時はDNA鑑定の黎明(れいめい)期。格段に精度が高くなった現在の技術で再鑑定すべきだ」と主張していた。
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科学は万能にあらず。科学の名に行われた間違いは、科学によって正されました。
科学の進歩とは常に日進月歩であり、完成された科学などは、未来の科学から見れば大いに間違っていることなど、可能性はあることでしょう。
科学の名の下に発表されたことが、あたかも事実であるかのように信じてしまうのは、とても危険なことです。
私はこの様な科学の話を聞く度に、エーテル理論(エーテルとは、宇宙に満たされている物質として創造された。真空では何も伝わらないと考えられ、光が伝わるためには、その間に何か媒体となる物の存在が必要だと考え、創造された物質)やフロギストン説(物が燃えるには、フロギストンという燃素が物質には含まれているから燃えるという考え方)を思い出します。どちらとも発表された当時は、有力な説でしたが、今では否定された科学理論です。
この様に科学の定説は、その時代時代によって変わっていきます。未来に終わりがない以上、何一つ永久不変ということは無いはずです。
時代的な制約があり、常に「今を生きる」人類にとっては、その時の有力説を事実として認識するしか方法は無いのです。しかし、それは絶対じゃない。科学の名の下に発表される様々な説であっても、それは将来、否定されるかも知れないという謙虚な気持ちで信じなければならないわけです。
現代における最先端科学の分野では、定説が決まっていないからこそ、専門家同士が激しく論争するわけです。我々一般人が、とても参戦できないような高度な分野です。
ですから、素人である一般人は、危ないと言われる説があれば、それを遠ざけることが処世術として必要になってきます。
塩分の過剰摂取は体に良くない、
酸化した油は、体に良くないとか、
携帯電話などの電磁波は体に良くないなど、
今でも、普通に聞くことができる「危ない話」はたくさんあります。
しかし、自分たちの利益に直結した企業の発表や行政の見解は、往々にして、「問題ない」とか「安全だ」ということをあたかも科学的であるかのように強調します。
汚染米が問題になったとき、「仮に食べたとしても人体に影響はない」と言われました。
今、誰もが普通に使っている携帯電話にしても、脳腫瘍ができるという説がある一方で、該当する企業は「何ら問題はありません」というように安全説を説いています。
この様な言い方は、素人として信用できるのでしょうか。
HIV(俗にエイズ)が世の中でセンセーショナルに取り上げられたとき、政府は努めて、これは感染力が低い病気だから、普通に生活していれば、感染することは有りませんと、大いに宣伝していましたが、当時、私は、そんなことを大々的に宣伝してしまい、もしも空気感染したり、キスによる感染などがあとで発見されたら、政府はどのように責任を取るのかと心配したことがありました。
人間誰しも、未知のものに対しては恐怖をするものです。必要以上に恐怖を感じてしまうことが、差別や偏見につながったり、過剰防衛を引き起こしたり、当人の健康状態を悪化させたりもします。つまり恐怖が、社会全体を不安定化させる原因になったりもします。その行為は、良くないことだったり、科学的判断でなかったりもします。
しかし、私は未知なる物に対する素人・庶民の処世術として、過剰反応はある程度仕方が無いとの見解を持ち、そのような方々には同情的であり、かつ寛容的です。その行動が、適正反応か、過剰反応かは、その時代では判断できない限界だからです。後世のもっともっと科学が発達した段階であって判断できる事象だからです。
常に科学は、発展途上です。科学の名の下に発表される考え方は、後世の科学によって否定される可能性を運命的に持ちます。だからこそ、私たちは、たとえその時は、「愚か者」と思われようと、現代の(必然的に限界性を持つ)科学を盲信することなく、自分の判断で、行動することが求められます。
究極のところ、自分の一生も自分の身体も、行政は何ら責任を持ってくれることはないのですから。あとでどんなにお金をもらったとしても、失ってしまった時間や体や関係は元通りにはなりません。
今回の足利事件に関しては、科学を盲信して、人一人に過剰な不安を与え、人生を17年以上も無為にさせた可能性を持つ警察と司法に対して、激しく猛省を促します。
とりわけ警察は自白に頼る取り調べを止めなさい。
同時に司法は、警察の自白調書を証拠として採用することを止めなさい。
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2009年04月23日