清濁併せ呑む(せいだく あわせのむ)
私は支持者から「政治家とは、清濁併せ呑まなければならない」と教えられました。その時、なぜ清だけでなく、濁も呑まなければならないのか分かりませんでした。
本来の意味は以下の通りです。
善悪の分け隔てをせず、来るがままに受け入れること。度量の大きいことを言う。(広辞苑)
しかし、これを自分の言葉として理解し、消化することはできませんでした。できないながらも記憶して、その時、その時に思い出してきたのがこの言葉です。
そして、これまで私が漠然と思っていたのは、何か大きな仕事をしようとすれば、良いことだけでなく、悪いことにも手を染めることもあるだろうから、悪にでも成れる人物でないと大成することはないという意味での理解でした。
しかし、今、この言葉に対する「自分独自の解釈」が違ってきたのです。
「濁を呑む」とは、自分が汚れ(不名誉なこと、損な役回り、不利な状況、反体制、反主流)を引き受けながらも、それによって何かを得ようとする行為だと思えます。
その何かとは、政治家にとって、最も大切なことの一つである「信念」です。
信念無くして、汚れを引き受けることはできません。
無用な信用の低下やトラブルを避けようと思えば、一般に良いと思われること、または無難な選択しかできなくなってきます。
私はどれだけ汚れを引き受けてもなおかつ、支持されることを失わずにいられるか。
どこまで信念を貫けるか、ここにこそ政治家の質を如実にみることができると思うわけです。
(ただし、別の意味で、周恩来のような政治家は尊敬に値します)
何事も万事つつがなく調子がいいときは、誰もが輝いて見えるものです。
人間の、政治家の真価が問われるのは、むしろ逆境とも言える、濁を呑んだときこそだと思うのは、私だけでしょうか。
小沢代表の辞任の巡って民主党が右往左往しています。
こと次の選挙だけを考えて行動するならば、小沢代表は辞任した方が良いでしょう。
しかし、仮にそれによって政権交代を果たしたとしても、そのような「濁を呑めない」内閣は短命に終わるに違いありません。
小沢代表が辞任せず、総選挙を戦ったとしましょう。
それも原因で、政権交代を実現できなかったとしましょう。
しかし、私はそのような民主党の方が、中長期的には、真に国民のための政党に成れるのではないかと思うわけです。
かつて田中秀征は言いました。「政権交代を目的にしてはいけない」と。
もしも政権交代を目的にしてしまうと、政権交代が実現した途端に、その内閣は目的を失ってしまうからだと。
私は検察による国策捜査に負けることなく、小沢代表を要した民主党にこそ、真の司法改革ができると期待しています。
にほんブログ村
2009年05月06日