裁判所でしか通じない「おバカ」な論理
週刊朝日2009 5/8 P42
田原総一朗のそこが聞きたい! ギロン堂より
和歌山毒物カレー事件における林眞須美被告に関するコメントである。
裁判長は「林被告は関与を全面的に否認して反省しておらず、その刑事責任は極めて重い」と指摘している。だが「反省」するとは、つまり関与を認めることであり、否認するのが「刑事責任が極めて重い」というのは論理矛盾である。
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真相はともかく犯行を行っていないと否認している被告に対して、「反省」がないとして極めて重い刑事時責任を科そうとするのは、最初から被告が犯人だと決めてかかっているからである。
被告本人が否認している以上、被告の立場からすれば自分が関与していないわけだから、反省などできるわけがない。よって重罪が科せられることが決まってしまうならば、絶望的状況にたった一人おかれた被告が取り得る現実的かつ妥協的方法とは、とりあえず罪を認めてしまい、少しでも減刑してくれることを望むことしかない。
(だからこそ、自白に頼らない物的証拠に基づいた「科学的捜査」が何よりも必要なわけだが、日本の警察は相変わらず自白を目的とした捜査に頼り切っている。また被害者の親族たちは、とりあえず憎しみの対象を罰して欲しいと願い、誰かを罰することを切に望んでしまう。被告が本当に犯人なのかどうなのかは別に、極端なことを言えば誰でもいいから犯人として捕まえ、その人を罰して欲しいと願っている。真相が何かには、さほど興味が無い。)
かくして冤罪は作られるべくして作られていく。
私は何も林眞須美被告が冤罪だと言いたいわけではない。
しかし、現代日本における裁判では、あくまでも否認する被告に対して、「反省がない」として厳罰を下している。被告本人にしてみれば、やりきれない絶望を感じていることだろうと、私は共感もするし、いたたまれなくもなる。
魔女裁判の論理とは、以下のようなものである。
A「おまえは魔女か」
B「私は魔女ではありません」
拷問。
A「再び問う。おまえは魔女か」
B「私は魔女ではありません」
拷問。
A「三度問う。おまえは魔女か」
B「私は魔女ではありません」
拷問。
A「こんなに拷問を受けても、魔女ではないと否定できる人間はいない。おまえは魔女に違いない」
死刑。
もちろん、Bが途中で魔女だと認めてしまえば、その自白をもって、Bは死刑。
結局、Bは死刑になると言う落ちである。
日本の裁判制度とは、現代に蘇った魔女裁判だろう。
私の場合もそうだったが、否認する被告に対しては、徹底して罰を与えようとする。しかも、裁判の結果によって罰を与えるのではなく、裁判の過程で、長期勾留と接見禁止(私の場合、証拠隠滅の疑いがあると言われ、留置されていた滋賀県まで会いに来るという東京の家族とすら会うことができなかった。逮捕されて初めて家族と会ったのは、滋賀県の初公判の場所で、私に手錠がかけられて入廷した時の姿だった。もちろん、会ったからと言って会話などできるはずもなかった。)という嫌がらせを検察官と裁判官の共謀によって受けた。
何でも認める素直な被告に対しては、罪の軽減を認めてもいいが、そうでない場合は重罪。
自分たちの行っていることが、冤罪かも知れないという「恐れ」とか「不安」とか、大なり小なり権力が持つべき自分自身の力に対する恐怖をみじんも持っていない。
裁判員制度が導入されるにあたって、被告が否認している刑事事件に関しては、他の刑事事件に比べて慎重すぎるほどの対応が必要である。
そこには、罪に問う検察官も最終判断を下す裁判官にも「自分たちがもしかしたら間違っているかも知れない」という可能性の存在におびえながら、仕事をしてもらいたいものである。
しかし、私は日本の官僚制度が陥りがちな「失敗のない歴史観」を嫌と言うほど知らされてきた。エリートが行うもっとも陥りがちな失敗だと言っても良い。
私たちが行ってきたことは正しい。
↓
もし私たちが失敗だと認めてしまえば、歴史をさかのぼって先輩たちの所行までも間違ったことだと認めることになる。
↓
そんなことは認められない。
↓
よって、私たちの行いには失敗はない。常に正しい。
官僚制度は継続力があったとしても、まず方向性を変えられない。
王様が行っていることは常に正しいと思っている「小さな裸の王様」は、日本の官僚社会にこそ数多くいる。もちろん、それを変えるのが政治だ。
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2009年05月08日