努力は無条件に誉められる行為か
日本人は努力好きな人が多い。同じく、苦労した人というとそれだけで尊敬できる人のように思うこともある。
好きな言葉や座右の銘として、「努力」だと答える人もいるでしょう。
好意的に解釈すれば、主旨としてはわからなくもありません。
しかし、努力とは無条件に誉められるべきことなのでしょうか。
例えば、殺人犯は、努力して、人を殺そうとするのです。
強盗は、努力して、金品を盗もうとするのです。
「何をするか」という部分がすっぽりと抜け落ちてただ単に「努力」と言われても、私はそれだけではその人を評価の対象にはしません。
努力はそれが善行であるとの前提があって初めて誉められるべき事であって、前提を問わずして、それだけで誉められるべき事では決してありません。
同様に「働く」ということも無条件に誉められるべきことなのでしょうか。
詐欺師だって、仕事なのです。
殺し屋だって、仕事なのです。
私の経験上から言って「ねずみ取り」のように待ち伏せして交通違反者を捕まえるような仕事も、仕事と言えば仕事ですが、前述したような仕事と同様に軽蔑すべき仕事だと思っています。いや、むしろ自分たちは善行を行っていると、心底信じて仕事をしているとしたら、それこそ、たちが悪いと思うわけです。
働くとは、「ハタ(他の人たち)が、楽になること」などと言われることもありますが、実際には、自分たちが働けば働くほど、多くの人々が不幸になっていく「ねずみ取り」のような仕事もたくさんあるのです。
あえて自嘲気味に言えば、議員という仕事も、そのもの自体が既に「軽蔑すべき仕事」になっているかもしれません。そのように思っている人も世の中には多いと思いますし、そう思われたとしても、私はその中にいる一人として謙虚に受け止めるべきだとは思います。
近々、衆院選挙が行われます。
世の中には、一生懸命に働く悪魔もいれば、たいして働かない天使もいるのです。
あの人は、一生懸命だからとか、あの人は努力しているからと言う理由で、投票行動を決めてしまうと、せっかく投票した人が悪魔だったということにならないとも限りません。
逆にあの人は、一生懸命ではないからとか、動きが悪いからということで、投票しないとしたら、みすみす天使を遠ざけることになるかもしれません。
国の方向性を決める大事な選挙です。
政党と、候補者の表面的な汗の量ばかりを見て判断するのではなく、もっと核心的な部分にも思いをはせて、有権者の皆様には、これからの選挙の投票行動につなげていただきたいと思っています。
政治の世界には、一生懸命努力して、悪いことをしようとする悪魔がたくさんいるということをご承知の上、これからの選挙戦にご注目ください。
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2009年05月14日