外見は中身を凌駕する
5/21 読売新聞からの引用です。
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21日にスタートする裁判員制度で、法廷での被告の姿が大きく変わる。
これまでは拘置中の被告がジャージーなどを着て、手錠・腰縄姿で入廷する光景が一般的だったが、「犯人という予断を裁判員に与える」との指摘があるため、法務省は被告に貸与するネクタイや靴を購入した。手錠・腰縄も裁判員に見せない対策が検討されているものの、保安上の懸念から関係機関の協議は難航している。
法務省はこれまでに、結び目がほどけない取り付け式のネクタイを男性400人分、革靴に似せたかかとの部分がない靴を男女700人分、計約280万円で購入した。かかとをつけていないのは、走りにくくして、逃走を防ぐ狙いがある。各拘置所に配布し、裁判員裁判に出廷する被告に限って貸し出す。
従来は、ネクタイは自殺防止の観点から着用を認められず、靴もサンダルに限定されていた。日本弁護士連合会が裁判員の予断を防ぐための対応を要望したことを受け、法務省は運用を変更。同省幹部は「保安上問題がない形状の物があったので譲歩できた」と話す。
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竹内一郎『人は見た目が9割』というベストセラーがあります。
「珍説だ」との批判もありますが、私はこの本を買って読みました。
学術的見地から、「見た目が9割」なのか「6割」なのか、という割合の問題はあるでしょう。それにしても、厳密性を求めなければ、「見た目」=「外見」が重要であることは、間違いありません。
鷲田清一氏は、ファンションに関する考察を数多く発表している哲学者です。氏の著書を少しでも読んでみると、現代とは、中身が外見によって規定される時代であると位置づけています。
わかりやすく言うと、自分の体型にあった服を着るのではなく、あの服を着たいから、私はあの服にあった体型になるということです。あの体型になりたいから、必至にダイエットもするわけです。
現代は、外見が中身よりも重視される時代です。外見が中身を凌駕しているのです。
さて、裁判員制度の発足にあたって、被告にもネクタイが認められるようになったとことは、とても望ましいことです。私が被告となって法廷に出た時は、スーツを着ることはできましたが、夏でもないのにクールビズファッションでした。
この様に裁きを受けるときこそ、どのような外見であるかは、被告の運命をも左右しかねません。顔や体型を変えることはできなくても、せめて服装ぐらいは、相手に好印象を持ってもらえるような気配りが許されて欲しいものです。
手錠をする。腰縄をつける。ネクタイはさせない。靴は履かせない。今までの裁判とは、その一つ一つの「外見」が、既に被告を罪人として、裁判官に印象づけるための、検察側による謀略だったのかもしれません。だからこその有罪率99%だったのでしょう。
各方面で、反対者がいて、問題も多い裁判員制度ではありますが、このように改善される点もあるとすれば、私はやはり現状の裁判員制度を是とします。もちろん現状が最終的なものではありません。改良点については大いに議論し、変えていくことが望ましいでしょうし、裁判員制度を陪審制へつながる通過点として、立ち止まることが許されない今を認識しつつ、妥協的に現状ではこれを是として承認します。
国民が直接参加する裁判によって、今まで国民が直接見なくて済んでいた、国の仕組みのあり方に、少しでも光が当てられます。それが国全体のレヴェルを、底上げを図ることになると信じています。
権力に対する国民による直接参加。これこそが権力から国民を守り、国民のための権力を使いこなすための技であります。
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2009年05月21日