本当に許せない国家犯罪
足利事件で、菅家利和さんが釈放された。
「当時、私は真犯人にされてずっと我慢してきました。警察官、検察官を許すことはできません。間違ったでは済まないんです。この17年間、ずっと思っていました。絶対謝ってほしい」
菅家さんのコメントである。
でも「犯人」は警察官、検察官だけではない。裁判所は、3度も無期懲役の判決を出した。再審請求も却下してきたのだ。
裁判所にも充分「犯人」になる資格がある。
この警察官、検察官、裁判官。このような大きな組織の中で権力をふるってきた人たちは、このことについて、いったい誰が謝ったのだろうか。いや誰も謝っていない。誰も謝ろうとしない。
私は最低と言われる政治家でさえ、謝罪の言葉を口にしている場面をテレビなどを通じて何度も何度も見ている。民間会社であっても、偽装問題や倒産など、さまざまな問題が露呈したときに、組織のトップは、深々と頭を下げて謝っている。
色々と問題もあり、失言もあり、どうしようもないと失望される事も多い政治家ではあるが、何か問題があった場合、謝らない政治家を私は知らない。謝らない代わりに自殺してしまう政治家もいたが、それも、それだけ深く自分の責任を痛感しての行為であろう。
我々は、名前を名乗り、顔を出して、一人一人の責任で発言し、行動している。
政党に所属していようが、いまいが、行政組織の陰に隠れて、こそこそ国家犯罪を行うような彼らとは、全く違う。謝るときは、しっかり謝るのが政治家だ。
それなのに、人を捕まえ、裁き、誰よりも権力を持つ立場にある警察官、検察官、裁判官は誰一人として謝ってはいない。今、ここで「最低の人間」は誰かと問われれば、彼らこそ、最低な人間たちだと言っても過言ではないだろう。
人一人の17年間半という月日を一方的に奪っておきながら、警察官、検察官、裁判官は、未だに我関せずなのだろうか。「人でなし」とは、この様な人のことを言うのである。
さて、冤罪は、現代でも起こりうる問題だ。冤罪が起こらないような制度の確立が求められる一方で、将来、どんなに科学技術が発展した未来も含め、いついかなる時でも冤罪は起こりうるとの仮定の下、冤罪になって、多くの月日や人間関係、家族関係、財産などを失った被疑者に対して、どのような償いを国家が行うのか、そのようなことも同時に考えておかなければならない。
また国家補償が大きくなればなるほど、その影響を考えて、冤罪の疑いがある人に対して、無理矢理にでも罪をなすりつけてしまい、冤罪があったという、警察、検察、裁判所にとっての「負の歴史」を作らせないようにしようとする力学が働くことも充分に考えられる。
よって、彼らの対抗勢力となるべき、刑事弁護士に対する立場の強化や、警察、検察、裁判所などの行政側にあってもなお、彼らと対立すべき立場にある「真摯に被疑者の権利を重視する内部監査のようなもの」も新設すべきであろう。
今回は、弁護団の大いなる努力があって、人一人の人生が再スタートを切れたわけだが、できることならば、もっと早い段階での釈放があってもしかるべきだった。
今回の問題点の一つとして、再審請求を却下してきたということがあるのだが、行政内にあっても対立する勢力が批判的に物事を見る目を持っていれば、もっと早く最新のDNA鑑定により、菅家利和さんの無罪は証明されたはずである。
裁判所の怠慢、認識不足を許す事なかれ。
人は間違える。でも間違った場合、謝ることもできる。そう子どもたちに教える立場の大人たちが、こんな間違った「国家犯罪」を犯しても、謝ることができないのだ。
全く以て恥ずかしい日本国に、私たち国民は住んでいる。
最終的には我々の税金で、菅家利和さんは、手厚く補償されるのである。それを躊躇してはならない。
にほんブログ村
2009年06月05日