職業人であることによる不可能
プロとアマチュア。玄人と素人。私たちは、この言葉を聞くと、無意識に、プロが上で、アマチュアが下のような価値観を持つだろう。
しかし、特殊な業界において、玄人は歓迎されず、素人が歓迎される。同様に政界もまた、20代の新人がいきなり選挙で当選したりするのは珍しくなく、素人が歓迎される業界とも言える。ただし、政界で素人とも言える若い候補者がよく当選するのは、ベテラン議員に対する不満が多いことの裏返しでもあり、その選択根拠は極めて、消去法的である。
さて、とある勉強会に参加して、陪審制の議論をした。
そこで職業裁判官、つまり官僚裁判官がダメだという理由が明確に二つ述べられた。
一つ目は、職業裁判官は出世欲を持ち、保身を持つからダメだという。無罪判決など出してしまえば、その裁判官は確実に出世コースから外される。将来、自分が最高裁判所の裁判官になりたいと思えば、無罪判決など出すことなく、検察官の求刑通り、有罪にしなければならないという業界の常識があるからだ。行政裁判で違憲判決など書こうものならば、その裁判官は一生、冷や飯を食わされることになるであろう。
二つ目は、彼らは絶対に間違えを認めない。日本は三審制と言われるがそれは建前であって、実態は一審が全てであり、高等裁判所、最高裁判所の判決はそのほとんどは、地方裁判所の判決の追認に過ぎないというのだ。間違えを認めない職業裁判官がいる限り、間違いに気づいても、それは正されることなく、間違いのまま成立してしまう。よって冤罪は無くならないというのだ。だからダメだというのである。
これまさに裁判官が職業人であることの限界である。
陪審制のいいとことは、判断を下すのは、素人たちだし、素人だからこそ、明日はその場にいないわけであり、しがらみにとらわれない、保身に走ることもなく良心に従ってものの善し悪しを判断できるというのだ。
逆説的だが、無責任だからこそ、良い判断ができる可能性があるというのだ。
私は職業裁判官により、一審、二審と有罪という判決をもらったが、素人の有権者からは選挙において当選という無罪判決をいただいて、今でも区議会議員をさせていただいている。
だからこそ私は、プロが下す判断がダメであり、素人が下す判断が尊いという意味を、身をもって理解することができる。
プロはプロだからこそ、自分が食べてゆかなければならないからこそ、家族を食べさせてゆかなければならないからこそ、根源的に保身であり、だからダメなのだ。
裁判官の顔が国民に向かず、自分を評価する組織にばかり向いているから、職業裁判官は、無罪判決を書くことができない。被告となった国民の99.9%を有罪として、保身を保っているのである。
権力分流がハッキリせず、自らの良心に忠実であるべき裁判官でさえも、行政によって、その根本部分をコントロールされてしまっている、このような裁判官をいただく日本国民は、はたして幸せなのだろうか。
振り返って、議員もまた究極のところで、プロになってはいけない職業だ。時には有権者から選ばれないかもしれない。時には自主的に辞めなければならないかもしれない。時には逮捕されるかもしれない。時には殺されるかもしれない。
でも、だからといって、行動することをためらってはいけない。
家族からすれば、何ら失敗をすることなく無難に職をこなし、世間常識的な年齢まで議員をしていて欲しいと望むかもしれない。
でも家族は議員にそれを望んではいけない。もし議員が保身に走れば、無罪判決をかけない職業裁判官のように、私とその家族の幸せは実現できても、それで国民が不幸になるからである。
だからこそ「議員はいつ失業するかわからないから、普段から覚悟をしておいて欲しい」と私は家族に伝えている。
議員は素人でいい。でもその素人は、国民から選ばれた偉大なる素人であり、国民から使い捨てにされる素人でもある。この宿命を受け入れ、誇りを持って、働き、時が来れば辞めればいいと思う。
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2009年06月08日