人一人を殺すための凄い論理
飯塚事件に関して、ウィキペディアより
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一審の福岡地方裁判所は1999年9月29日、控訴審の福岡高等裁判所は2001年10月10日に検察側の求刑通りに被告人に死刑判決を出した。その理由として犯行を否認し反省の色もなく残虐非道な犯行であり、被害者遺族の厳罰感情が著しいためであるとした。
被告人は最高裁判所に上告した。最高裁で行われた弁護側弁論では、当時のDNA鑑定の精度が未熟だったと主張[1]し証拠能力がないとしたが、2006年9月8日に第二小法廷(滝井繁男裁判長)は証拠能力があると認め、そのほかの状況証拠とあわせて上告を棄却し死刑が確定した。なお裁判では動機は「性的欲望を遂げようとした」 としているが、被害者は首を絞められ、顔を殴打した跡があったが性的暴行を受けていなかった。また裁判でも犯行場所も殺害状況も動機も真相が明らかにならなかったが、これは被告人が終始犯行を否認した為であるが、これについて捜査関係者は「彼は家族を守るために否認を貫いた」との見解を示している。それによれば犯行を認めれば自分の家族が崩壊するが、冤罪を主張したまま死ねば救われるというものであったという。
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自分が犯人ではないと信ずる者が、犯行を否認するとどうなるか。
→「犯行を否認し反省の色もなく残虐非道な犯行であり、被害者遺族の厳罰感情が著しいため」
→被告人に死刑判決。
信念を貫いて、被告人が終始犯行を否認するとどうなるか。
→「これについて捜査関係者は『彼は家族を守るために否認を貫いた』との見解を示している。それによれば犯行を認めれば自分の家族が崩壊するが、冤罪を主張したまま死ねば救われる」
→死刑になってもなお貫こうとする被告人の信念を無視する警察。
飯塚事件では、足利事件と同様に、DNA鑑定の精度が怪しかったにも関わらず、被告人を2008年10月28日に福岡拘置所で死刑にしてしまった。
足利事件では、栃木県警および関係した検察・裁判官を最大級の言葉で批判した私ではあるが、飯塚事件と比べてしまうと、何ともやりきれない。
これぞ現代の魔女裁判である。
福岡県警および関係した検察・裁判官は、自分たちのメンツを守らんが為に、よってたかって一人の人間を死刑にしてしまった。2008年、正にまだ一年も経っていない最近の出来事である。足利事件の結果が判明する前に、どさくさに紛れて、関係者は一人の人間を、自分たちの保身のために、殺したのだ。
本当に、権力とは、無茶をする。
足利事件では、罪を問われるべき警察・検察・裁判所などは、ギリギリのところで、人間の所業だとも言えなくもないが、飯塚事件では、罪を問われる可能性さえも否定してしまった警察・検察・裁判所は、とても人間の所業とは思えない。鬼畜や悪魔の所業であろう。
こんなことが、現代日本にまだあっていいのだろうか。
死刑制度については、賛否両論あるだろう。私はその答えをまだ出していない。
しかし、徹底して本人が否認している事件については、それがどんなに凶悪な犯行であったとしても、死刑にしてはいけない。無実の人を、公権力を使って、殺してしまう可能性を「凶悪犯罪だ」という理由で無視することはできない。
しかし、今回、この日本では、その禁忌を犯してしまった。いやもう今となっては、警察をはじめとする公権力によって証拠は隠滅され、事実はうやむやとなってしまった。これを狙っていたからこそ、殺してしまったのだ。「死人に口なし」とは、正にこのこと。
ご本人の意志を想像すると、さぞや無念のここと思います。
リングに登場する「貞子」のように、不条理な死を強制された者は、世界全体を呪い、祟りたくもなることでしょう。
日本の公権力による暴力によって、無残にも殺された久間三千年(くまみちとし)さん(享年70歳)に対して、この場を借りて、心から哀悼の意を表します。
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2009年06月17日