選挙が果たす意味
足利事件をきっかけにして、ここ数日、私は、警察、検察、裁判所を批判の対象にしています。これはとにもかくにも、権力者に対し、国民目線により、常に批判的に監視しなければならないと信ずるからです。
国民は選挙を行います。それによって、議員や首長を選ぶことができます。
これはどういう意味なのでしょうか。
国や地方自治体を司る、または代表する権力者たちを、国民自らが選ぶことによって、議員や首長よりも、国民の方が偉いんだぞということ、彼らに何度も何度も忘れぬように教え込むための儀式だと思うわけです。
国民による自分たちの一存で、議員や首長の地位は、いつでも剥奪することができる。それだけ偉い存在の国民に対して、畏怖せよ。恐怖せよ。尊敬せよというメッセージなのです。
既存の政治家に様々な問題があり、満足していない国民が多数いることを承知しつつも、それでも、議員と名の付く者、首長になった者の中で、国民の支持を得ずにその地位に就いた者は、一人もいません。
では、ひるがえって、警察官、検察官、裁判官という権力者に対して、国民は自分たちの方が偉い、国民主権であると自信を持って言える立場でしょうか。否。国民から選ばれた政治家がだらしないと言ってしまえばそれまでですが、警察官、検察官、裁判官などは、国民から選ばれたわけでもなく、監視されることもなく、それでいて日本国内にあって、強大な権力を有しています。
傲慢な彼らに対して、国民こそが国の主役であって、彼らこそ国民の下僕に過ぎないと言うことを、ことあるごとに示さなければ、平安な国民生活は守られません。
だからといって、私は彼らを政治家同様に選挙で選べと言いたいわけではありません。たとえ選挙で選ばなくても、対立する勢力を育てて、権力の緊張と均衡を図れば良いのです。
一つの案としては、刑事弁護人をもっと厚遇することです。警察、検察、裁判所の不正に対して、在野の立場から唯一、対抗できるのは、弁護士ぐらいでありましょう。ですから、弁護士の権限を拡大し、もっと厚遇しつつ人材を集めることが寛容です。
次に、警察、検察、裁判所に直接、国民が参加するシステム作りが必要です。彼らのような縦社会では、たとえ現場で間違ったことが行われようとも、団結力を持って良しとする気風があって、なかなか異論が言えなかったりします。彼ら独特の縦社会に囚われない独特の素人感覚により、警察、検察、裁判所のあり方を変えていくことが必要です。職業として関わっているからこそ、しがらみに囚われて、正常な行動ができないプロはどの分野にでもいます。職業としていないからこそ、無責任に関わっているからこそ、しがらみに囚われず自由な発想で、自分の良心だけに従って行動できる素人もいます。
国民全て素人です。プロではありません。しかし、その素人こそが、国の主人公なのです。
権力組織の中枢に、期間限定の素人が、入れ替わり立ち替わりして、現場で権力者の行動をチェックできるようにすることが必要です。
今からでも遅くありません。
権力犯罪防止法を制定し、警察官、検察官、裁判官を国民の下の者達と位置づけ、不正を働いた彼らに対して、厳罰を下せるような制度を作っていきましょう。
躊躇することはありません。日本の主人公は、日本国民なのですから。
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2009年06月22日