事業者重視か、消費者重視か
格差社会の元凶として、今でこそ一部評判が悪い小泉構造改革であるが、私は中曽根民活路線から始まる民営化主義は、功罪の大きな罪がある部分を認めつつも、それと同時に、大きな価値観の転換があったと理解している。
物の値段はどうやって決まるのか。事業者による積み上げ式のコスト計算では、材料費、人件費、利潤などを積み上げた結果、物の値段が決まってくる。事業者が権力を持っていた時代は、その値段に対して、消費者は異論を挟めなかった。「嫌ならば買わなければいい」という事業者側の露骨な姿勢がそこにはあった。
様々な利権に守られた事業者は、何ら創意工夫をする必要も無く、また競争にさらされる事もなく、平穏無事に毎日の生活を送る事ができたことだろう。事業者にとっては平和な時代である。
しかし、ある日、消費者は「お金を払うのは私だ」という経済活動における主人公は自分自身であるという意識に目覚めた。「金を払う者が偉い」この意識である。
同じ商品ならば、値段が安い商品に。
値段が同じ商品ならば、サービスが良い商品に。
値段とサービスが同じ商品ならば、手軽に買える商品に。
源流をさかのぼれば、アメリカから始まった市場原理主義とセットの民営化路線は、ありとあらゆる消費者の欲望を実現可能へと導いたのだった。
国の独占を止め、民営化させることによって、市場を開放し、新規参入を奨励し、同じ市場で競争をさせる。このことが消費者の利益になるという考え方である。
いきすぎた民営化路線に対する見直しが各分野で行われているが、元はと言えば、消費者を重視する社会構造が、この民営化路線を押し上げたのであって、国民はこのメリットも充分に享受してきた。
果たして民営化路線なくして、携帯電話に主要3社が生まれたかどうか怪しい。主要3社中心に激しい競争をしなければ、これだけ国民に広く携帯電話が普及したかどうかも怪しい。
私は行き過ぎとも思えるほどの民営化路線をまずは評価しつつ、その行き過ぎた部分を修正する時期が今なのだろうと理解する。
例えば高速道路公団の民営化。厳密に言えば、民営化自身が悪くはないのだが、そもそも民営化したところで新規参入が期待できない道路事業にあって、競争原理は正常には働かなかった。
同業他社が存在し得ない、代替不可の独占企業を民営化したところで、それは名目だけを変えただけであって、実態は何も変わらない。
そのような事業は、民営化ではなく、やはり公営として、広く一般に無償で使ってもらう事がいい。それが道路の持つ本質的な性格である。
いまや国は、消費者を重視するからこそ、民営化に反対し、優良なサービスを提供できる唯一無二の存在になろうとしている。こと高速道路に対する対応としては、この考え方こそが正しい。
公共物という国民の共有財産は、建設過程においては採算を第一に考えるとしても、建設後については、採算を第一に考えてはいけない。どれだけ有効利用されるか、どうやって需要を引き出すのかを第一に考えて、運営を行わなければならないのである。
東京湾横断道路のように、作りすぎた高速道路は、国民全体にとっての負の遺産であろう。しかし、作ってしまった以上、作られた過去を批判し続けても、事態は変わらない。造られてしまった道路を取り壊すことも、無駄である。それならば、利用して、利用して、利用して、より多くの国民に喜んでもらうことが、まずは最優先になる。
だからこその高速道路の無料化なのだ。
一部、高速道路を無料化すると渋滞が激しくなるという人たちがいる。それだけ多くの人たちが使う道路である。時には、渋滞も激しくなるだろう。だいたい有料制度時代の高速道路であっても、渋滞するときは渋滞するのである。同じ渋滞する道路であるならば、無料化された方が、どれだけ多くの利用者に喜ばれるか。私はそのような渋滞ならば、甘んじて受け入れようと思っている。
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2009年08月22日