アニメ「DEATH NOTE(デスノート)」を見て
世界的に大ヒットしたマンガ・アニメである。
人を死なせる力のある死神のノート「デスノート」を使って犯罪者を抹殺し、理想の世界を作ろうとする主人公と、殺人を続ける彼を追う名探偵とその後継者との闘いを描く。
正直、まだ全部見たわけではない。たった2話までしか見ていない。それでも、このアニメが訴えているテーマは理解できた。
主人公が考える「犯罪者ならば、殺したっていいじゃないか」という論理は、何を隠そう、今の大多数の日本人が持っている「普通の感覚」である。その証拠に、日本人の多くは、死刑制度を肯定している。
犯罪者というレッテルは、本人および弁護士のように彼を擁護する立場の者達から、一切の反論を受け付けない。犯罪者を弁護する弁護士でさえ、「なぜあのような悪人の弁護をするのですか」とある意味、被疑者と同罪であるかのような視線を世論から受けることがある。
悪いことに対しては、何でも厳罰に処することが、正義の実現であり、寛大なる処分とは、甘い処分であり、それでは秩序を保てないと考える。
日本においては、死刑制度が世論の多数によって支持され存続している。死刑を肯定する論理とは「犯罪者ならば殺したって良い」というものだ。
「デスノート」の主人公である夜神月(やがみ らいと)が作り上げようとした、「犯罪者がいない社会」を肯定する論理と同じである。
犯罪者を殺すという厳罰に処している夜神月と平均的な日本人とは、紙一重であって、実は誰もがデスノートを手にした途端に、夜神月になるのでは無いかと思っている。
しかし、この物語を見続けていけば、読者や視聴者は、相当数、主人公である夜神月と対峙する名探偵L(エル)に感情移入することだろう。犯罪者を殺していく主人公を悪と考え、その者を捕まえようとする者こそを正義と認識するのではないだろうか。
権力を握っている体制とは、非常にご都合主義だ。厳罰主義を肯定し、死刑を肯定する者は、日本を中国のような国にしたいのだろうか。2008年のアムネスティの報告によると、世界25ヶ国で少なくとも2390人の死刑が執行された。その中で、最多の中国は、少なくとも1718人と世界の死刑執行数の約72%を占めている。まさにこれほど犯罪者に対して厳しい国はない。では、その死刑国家、中国では、日々の治安は改善されているか。理想の国となっているか。
犯罪者の名の下に、東トルキスタンやチベット地区の人間を殺し続けているのが、中国の真の姿ではないだろうか。
殺人者であっても、その人を殺してはいけない。ましてや意見が違う政治犯ならば、尚更これを国家が殺してはいけない。これはヨーロッパを中心にした思想である。
私は必ずしも死刑廃止論者ではない。死刑肯定論者でもない。しかし、もし死刑を行うのであれば、少なくとも、死刑を行う者は、殺人者と同列であり、それを肯定する者も同罪であろう。そう考える。
「死刑を肯定し、サインする大臣は殺人者ではない」
私からすれば、詭弁だ。死刑を肯定する者には、自分が犯罪者と同列というレッテルを貼られてもなお、「正義」を実現する覚悟を決めた者だけがやむなく許される行為だと私は思う。
死刑執行の現場に立ち会い、国家が命を奪うその瞬間を瞬きせずに凝視できる覚悟を持った人でなければ、死刑など簡単に肯定できないと思う。死刑を肯定する自分自身が、「犯罪者と同列になる」その覚悟無くして、私は死刑を肯定すべきではないと思う。多くの日本人に、その覚悟があるのだろうか。
死刑判決を出したくない、有罪判決は出したくない、人を裁くことなんかしたくない、そう言って、裁判員制度から逃げ回っているような日本人に、その覚悟があるのだろうか。
(自分も含めた)日本人のメンタリティーは以下のようなことではないだろうか。
「面倒なことはしたくない」
「自分の手は汚したくない」
「自分に関わりがないようなことはしたくない」
「しかし、社会に対する不満は大いに言いたい」
「それでも、良い社会にしていきたい」
劇場型民主主義の典型だと思う。
もし、アニメ「DEATH NOTE(デスノート)」を見て、主人公である夜神月に感情移入できて、犯罪者を次々に殺していくことを肯定できる人間が、あなた自身であるならば、もうこれ以上いうことはないだろう。
少なくとも私は、人間をベルトコンベヤー式に殺していくような、そんな死刑肯定論者ではない。
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2009年09月17日