子どもを叱らない親を叱る
仙台から帰ってくる新幹線での出来事。
自由席に私は座っていた。
前方の椅子では、赤ちゃんが泣いたり騒いだりしていた。
とてもうるさかった。
しかし、周囲はそれを必至に耐えていた。
あまりにも赤ちゃんや子どもたちのうるささがピークに達したとき、前方から、ドーンという大きな音がした。
まるで、上の棚から、何かが下に落ちたような大きな音だった。
私は背筋を真っ直ぐに伸ばして、背もたれの上から顔を出し前方を覗いた。
大きな荷物が下に落ちた形跡はない。
何かが壊れたような形跡もない。
しかし、何かが落ちたかのような大きな音がしたことは事実だ。
私は何が起こったのかわからず、前方を始め、周囲を見渡した。
前方に座っていた、子どもたちのお母さんと思われる女性が、心配そうに後部座席を覗いていた。
「どうしたの。どうしたの」
そのようなうろたえ方だった。
注意深く見ると、2列前方にあるの長いすが少し正規の位置からずれているようにも見えた。
先ほどの女性が、私が座っている椅子の1列前に座っている男性たちに話し始めた。
「うるさくしてすみません。でも、それだったら、言葉で言ってください。・・・・・・・・・・・・・」
女性の抗議は続いていた。前方の男性は何か反論していたかも知れないが、私の位置からは聞こえなかった。
女性の抗議が、30秒ほど続いた頃だっただろうか。
発言が聞こえない男性に代わって、私が口を開いた。
「あえて言葉には出して言いませんでしたが、うるさいと思っているのは、何も一人だけじゃないんです。騒いでいる子どもを黙らせるなり、ここから連れ出すなりする必要があるんじゃないですか」
その女性は、私の発言を聞くやいなや、きびすを返して、泣いていた赤ちゃんを抱きかかえ、その場から座席外の通路へと消えていった。
その後、すぐに想像力が働いた。きっと私の前に座っている男性二人の内、一人が、あまりにも赤ちゃんたちがうるさかったので、それに切れて前方の椅子を思いっきり蹴り飛ばしたのだろう。それであのような大きな音が聞こえたのだろう。
椅子を蹴るというのは、確かに正当な抗議行動ではない。しかし、あれだけのうるささを真後ろで聞かされていたら、何かをしたくなる気持ちもわからないわけではない。実際、私は、その後の後に座っていて、ほぼ同じような騒音をずっと聞かされていたわけだから、椅子を蹴った男性に同情的だったことは事実だ。
公共の場所における子どものしつけ。それはたとえ相手が赤ちゃんであろうとも、一義的に親が行わなければならい。しかし、親がその任を放棄し、子どもをしつけないとするならば、子どもの責任者である親に対して、周囲の大人がしっかりと注意をしなければならない。
公共の場所で、子どもの騒音によってトラブルのは、初めての経験では無い。これまでも何度も、子どもの騒音によって、私自身悩まされてきた。昔、公共の場所で騒ぐ子どもと一緒に遊んでいる父親に対して、「お父さんですか。しつけてください」と注意したところ、逆ギレされ、柔道技で投げられそうになったこともあった。
実際にあった話だが、今の日本においては、電車内で携帯電話を使い、通話していた女性を注意しただけで、痴漢冤罪にされてしまうこともある。何かを注意した側が、注意された側から刃物で刺されたりすることもある。場所が場所だけに、注意した側がホームから突き飛ばされ、怪我をしたり絶命することもある。
そのようなリスクを負うことを、多くの人たちは嫌うだろう。
注意をするという、赤の他人の行動を制するような関わり方に対して、極力避けようとするのが、この日本における処世術なのだ。
椅子を蹴り飛ばした行為と私の発言。その二つの抗議行動によって、その車両から騒音は消えて、多くの人たちは助かったに違いない。しかし、どうであるにせよ、私たち二人以外に、子どもたちの騒ぎに対して、何か意見する人たちは、その車両にはいなかった。
誰もが見て見ぬふりをしていたのかもしれない。赤ちゃんの泣き声がうるさいとは思わなかったのかもしれない。ただひたすらに、「うるさい」とは思っていても耐えていたのかもしれない。
結局、周囲の人たちの気持ちはわからないのだが、不特定多数の「わからない人」との関わりを持たないようにしようとする彼らなりの自己防衛本能が、そうさせたのかも知れないと、私は思う。
義を見て為さざるは勇無きなり
私だってそんなに立派な人間ではない。圧倒的な力の差がある場合は、全くの無力である。
昔、暴力事件があって、大衆が遠巻きに見守っているとき、私はすぐさま、その輪の中に入っていった。しかし、一人の男性を武器で殴っていた二人の男性に対して、私は声をかけることが精一杯の対応で、実力行使によって、彼らの暴力を止めることはできなかった。ただ、彼らのやることを、そして一人の男性が殴られることを見ていることしかできなかった。その回りには何十人という一般の人たちが見守っているというのにである。
それでも、目の前で喧嘩があれば、それを無視せず、何もできないなりに、いつの間にかその輪に入って、何とかしようと試みる人間ではある。
何か自分にとって不利益なことがあったとき、耐えるだけ耐えていることだけが美徳だとは思わない。時には、自分に対するリスクも覚悟で、自己主張する。そんな人が増えて欲しいものである。
今回はたまたま赤ちゃんによる騒音だった。しかし、これが車内における暴力行為だとしたら、私はこのとき、何ができたのだろうか。
仮に何もできない人間だとしても、見て見ぬふりをして、その場から立ち去るような人間にはなりたくないものである。
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2009年09月22日