中川昭一元財務相の死にあたって
急なニュースで私もビックリした。警察によると事件性は少なく、他殺でもなければ自殺でもないとのマスコミ発表だった。
昨日、たまたま日記に、「区議会議員以上に議員報酬をもらっていながら、自殺してしまった過去の国会議員たちについては、どのようにお考えなのだろう」と、いただくお金の大小と、人間の幸不幸の関係について書いたばかりだったが、自殺ではないとはいえ、何か因縁めいたものを感じた。
一般的に政治家は二つの命を持っている。それは政治生命と生物としての生命である。この二つの生命は、全く別物でありながら、微妙に関連して存在している。生物としての生命が終わったとき、政治生命は終わる。これは間違い無い。しかし、時に政治生命が終わったときに、または終わったと自己が判断したときに、生物としての生命もまた終わってしまう政治家もいる。それが自殺であろうと、病死であろうと、政治生命が危うくなったことに対する過度なストレスが、生物としての生命も奪ってしまうことになる。
本来ならば、政治に携わる者は「機を見て敏」なる者が大成するわけだが、同時に、それとは逆の要素である鈍感力もまた、逆境下においては、政治家に求められる資質となっている。
私は渡辺淳一の著書「鈍感力」はまだ読んでいない。だから、その内容はよく知らないが、小泉純一郎氏は、かつて安倍晋三首相(当時)に対して、「鈍感力が大事」と説いたという。鈍感力というと、何か愚鈍で冴えない人間を想像しがちだが、ここでは、どんなプレッシャーに対してもそれに動じず、生き抜く力を持った人間という意味で考えた方が良かろう。そう、鈍感力とは、様々な情報攻撃から当事者である個人を守るバリアみたいなものだ。それがあるかないかによって、どんな状況でも生き抜いていくという生命力が違ってくる。
私も少しおつきあいがある鈴木宗男衆議院議員などは、本当に生命力があふれている。どんなことに対してもへこたれない。常にパワフルであって、逆境にあってもその力の源は揺るがない。
時々お会いすると、政治家とは、これほどまでにタフでなければ、本来は勤まらない職業なのだろうと、つくづく思うのである。
いみじくも、中川昭一氏の死に際しては、同じ地域の衆議院議員ということで、鈴木宗男氏も各種マスコミでインタビューを受けていた。対照的なお二人を比べてみることで、政治家としての生命力の強さとは何なのか、考えさせられた一日だった。
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2009年10月05日