差別につながりやすい言葉とは、本質的に隠語扱いか?
国税局の方のお話を聞いたときに、国税局の査察部のことを「マルサ」と、その昔は呼んでいたとの話を日記に書いた。しかし、「マルサ」と言う言葉が一般的になると、それが隠語の役割を果たさなくなり、別の言葉に言い換えられるようになったとの話も書いた。
そう考えると、差別用語や放送禁止用語の類は、その言葉が誰でも知られるほどの一般的に使われるようになるとまた再び言い換えをしようとすることから、本質的に隠語なのだ。私はそう思うようになった。隠語は隠語であるが故に、一般化した途端に姿を変える永久運動を伴う。つまり多くの人たちに知られてはいけない特定の仲間内だけで使う言葉が隠語である。
まさに隠語とは、仲間と仲間以外を区別し、差別する。
ぼけが痴呆になり、痴呆が認知症になるような過程を、多くの差別用語は経ていく。言い換えられるようになって、よく使われてきた古い言葉は捨て去られ、新語の使用を半ば強要され、大衆はその意味が何なのかわからなくなっていく。
言葉という知的財産が、それが一般的になると、智の支配者(インテリ層)が勝手に、言い換えを行っていく。そして、その都度、差別をともなわないとされる同じ現象を指す「新語」を知り、使うことが暗に強要され、それが言葉を使う者に対する知的水準の尺度となってしまう。
このように考えると、差別用語とは、それを一般大衆に使わせない装置のようなものである。まさにそれは隠語。むしろ差別の意志などなく、無知ゆえに普通に差別用語を使ってしまう大衆を公然とインテリが逆差別し、大衆から言葉を奪う装置として機能している。
果たしてこれで良いのだろうか。
このような永久運動によって、日本語はその世代その世代によって、大きく断絶してしまう。過去の優れた文学や映画や漫画などが、差別用語の有無によって、そのものの姿として世に出られなくなったときなど、私は大いに疑問に思う。
差別も文化だ。これからの差別を無くすことはできるかもしれないが、過去の差別までも現代人が勝手に無くすことは、全ての創造物に対する許されない行為だと認識する。
「表現の自由」という価値観を再確認する上で、ここに「図書館戦争」というアニメを広く推薦する。
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2009年10月09日