贅沢しない海外旅行のすすめ
議員の海外視察が廃止されてから、2期がたった。江戸川区では、おおっぴらに海外視察ができなくなったので、友好都市訪問と称して、自民党と公明党の議員が、ゴスフォード市に公費を使って出かけている。
私は何も海外視察を批判するつもりはない。しかし、海外に行く相手先がいつもゴスフォード市で、行く議員は自民党と公明党の議員だけである。果たしてこれは公平な対応だろうか。
私が1年生、2年生の時に実施していた海外視察は、一期4年間の内、前半3年間を使って、1/3の議員が平等に行けるように割り振りがされていた。海外視察そのものを批判の対象にしたりして、辞退していた議員もいたが、それでも一人一人の議員は尊重され、平等に扱われていた。
それが今では、自民党と公明党の議員だけでの視察である。果たしてここにどんな大義名分が発生するというのだろうか。
海外視察は、表向きの批判をかわすために、形を変えて以前よりもいびつな形で現在存在している。
私は海外視察を否定する立場にはない。ただし、そこには予算の有効利用と議員一人一人の平等性が担保されていなければならないと考える。
海外視察を批判する議員の立場は尊重するが、「公費を使って海外に行くことは良くない」というのならば、公費を使って委員会視察に行くことはどうなのだろうか。同じ視察であっても、海外はダメで国内はOKとする基準がわからない。共産党をはじめとして、ほぼ全ての議員は委員会視察には参加するのである。
海外視察は区民から批判されるから行わない。
委員会による国内視察は区民から批判されにくいので行う。
こんな基準で、自らの行動を決めていたのではあまりにも日和見主義ではなかろうか。
遠い昔ならば、海外旅行は高額とのイメージもあったろうが、今では沖縄に行くよりも台湾や韓国に行く方が航空運賃が安いことはもはや常識と言っても良い。
(たとえば、対馬から船で釜山に渡ってみると良い。韓国が日本に対してどんなメッセージを送ってきているのかがよくわかる)
むしろ円高で航空運賃が安くなった今だからこそ、近隣の海外に行って、異文化を体験してくることは議員にとって私は必要なことだと確信している。
中央大学文学部の山田昌弘教授は、(週刊東洋経済09.11.21より)以下のように述べている。
「確かに私も海外出張した際、若い日本人の個人旅行者を見ることが年々少なくなっているような気がする。その一方で、高齢者の夫婦に出会うことが増えている。東南アジアの個人旅行を頻繁にしている友人(40代女性)に聞いたところ、欧米人の若いバックパッカーにはよく出会うが、日本人は若い女性がちらほらいる程度で、若い男性はほとんどいないという」
ご友人からの伝聞による記述だが、一点だけ訂正をしておこう。若いバックパッカーは欧州人だけであって、アメリカ人の特に男性は東南アジアを旅しない。日本人の男性と一緒で海外には行かない人たちである。少なくとも私の豊富な海外旅行経験から細分化すると、こうなる。
欧州人は大学を卒業すると旅に出る。
アメリカ人は大学を卒業すると働き始める。
一対一対応とはいかないが、まるで前者が日本人女性であり、後者が日本人男性のようである。
山田教授は、自分で考え、自分で困難にぶつかり、自分で解決していくそんな海外旅行をしなくなった若者たちに対して、よく言えば安全志向、悪く言えばリスクを冒すことをためらっているという。
このように保守化してチャレンジ精神を持たない若者たちに対して、日本の将来が不安だと言って、山田教授はコメントを終えている。
全く同様に、大名旅行のような海外視察ならば行くのに、もっと予算を削って、貧乏旅行でも良いからとにかく海外の数多くの事柄を見てきてやろうという議員がいない。海外に行くことは批判にさらされることだと、避けて回り、安全志向から海外に行かなくなった議員ばかりになったことに、私は日本の将来が不安だと思う。
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2009年11月20日