自己責任を追及される社会は、庶民にとって生きにくい
前日の日記で、「自己責任を負う覚悟がないものは政界に足を踏み入れるべきではない」そう言っていながら、自己責任を否定するような話をします。
よく責任逃れをする人を身近に見ますが、あれは無意識な自己防衛だと言えます。
昔話になりますが、党中央から大集会を開けと命令されて、集会を開いたはいいが、たいして人を集められず、責任を追及されたときに「地元の区議会議員が動かなかったから」と言って責任逃れをした、現在の衆議院議員がいますが、これとて自己防衛の方便だったのでしょう。もちろん、このようなことを言う人物は、指導者の器ではありません。
この様に自己の責任を追及されることは、本人にとってはとても辛いことです。それによって失脚してしまう場合もあるでしょうし、実害を被る場合もあるでしょう。結果は変わらなくても、自分に対する評価を変えようとして、何とかもがき苦しみあえぐ姿がこそにはあります。
しかし、誰かの責任に転嫁できる社会は、庶民にとって生きやすい社会だと思います。
身分制度があったときは、出世できない理由を、身分制度のせいにできたことでしょう。
社会が悪い、政治が悪いとは、庶民が常に口にする愚痴ですが、そんなことを言ってしまえば、人類史の中で、社会が良かったとか、政治が良かったなどという時代は、多分、1回も実存しなかったことでしょう。つまり架空の「理想社会」と比べて、悪いと言われてしまったのでは、全て悪い時代しかないことになります。
でも、そうすることで、個人の精神は救われてきたのではないかと思うわけです。
政治家が宗教の話をすると胡散臭さを感じますが、日本人の自殺の多さと無宗教ぶりと、自己責任という世相を関係づけてみると、逆境における精神的支柱がないが故に、多くの日本人が自殺に走るような気がしてなりません。
おおざっぱな数字ですが、年間男性が2万3000人自殺しています。女性は年間9000人です。これも男性の方が女性よりも多く自己責任を問われているからでしょう。言い訳できない、逃げられない社会構造の中で生きているのが、男性の証明とも言えるのではないでしょうか。逃げられない社会において、最後の逃げ場所が自殺だったりするわけです。
能力社会というものは、能力のあるものにとっては生きやすい社会ですが、能力の無い者にとっては、とても生きにくい、辛い社会になるはずです。しかもその能力が無いのは、社会のせいにも親のせいにもできないのです。自分自身が悪かったとなるしかないのです。
立場上、自殺を奨励することはできませんが、自殺するぐらいならば、微罪を犯すことによって刑務所に入れば、最低限の生活は保障されますし、全ての責任を投げ捨てて、失踪するということもできます。もちろん、どちらも良くはないことですが、自殺をするぐらいならばと言う比較論での話です。
しかし、妙に倫理的な人ほど、そのような非常手段による「生き残り」の選択肢を選ばず、死を選ぶような気がしてなりません。
私は能力主義と競争社会を肯定し、日本を活力ある社会にしたいと思っています。その一方で、能力が無く、競争はしたくないという人であっても、この世の中で生きていくシステムがあっても良いだろうと思います。何も全員が競争する必要はないのです。全員がボクサーとなって、リングに上がって殴り合う必要はないのです。
または競争したくなったときは競争ができて、競争したくなくなったときには、そこから簡単に脱落できる社会も良いと思います。
この様な考え方を政策に反映させようとすれば、起業家支援と弱者保護に帰結しましょう。起業家支援とは、この日本にあって、たくさんの雇用を作り出せる人を大切にしようとする発想です。弱者保護は、人間として最低限の生活は保障するので、自殺したり犯罪に走ったりする必要がないように庶民を安心させるための制度です。
これまでは公務員もまた、競争とは無縁の安定した職業でした。しかし、これからは上級職であればあるほど、公務員と言えども能力が問われてきます。安定ではなく、流動化します。そのような中にあっても、競争を望まない人たちでも気軽に働ける職場づくりをどのようにしていけばいいのか。NPOなどのイメージを持って、新しい生活スタイルを一緒に考えていくことも自分を責めない社会づくりには必要かと思っています。
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2009年12月28日