人の命の重さを知る鹿児島の旅
これまで鹿児島市しか行ったことが無かった鹿児島県を旅しています。
大河ドラマ「篤姫」の影響もあって、鹿児島は観光ブームとなっています。
維新ふるさと館にて明治維新のころの鹿児島の歴史を学びました。仙巌園では主に幕末の名君と言われる島津斉彬の業績について説明を受けました。斉彬こそが、当時下級武士であった西郷隆盛と大久保利通を抜擢したという事実からしても、優れた指導者であったことは間違いありません。
泊まりは知覧の富屋旅館にしました。当時「特攻の母」として慕われた鳥濱トメさんが経営していた宿です。そこでは孫の奥さんから、当時の色々な話を聞きました。
知覧特攻平和会館へ行き、展示してあった特攻隊一人一人の遺書を読ませてもらいました。死ぬ直前の人が書いた文章とは、とても涙なくしては読むことができません。
当時は17歳から26歳ぐらいまでの人たちがほとんどだったと聞きました。
母上で始まる文章もあれば、天皇陛下萬歳で始まる文章もありました。
そのような文章を読むと、当時の天皇はなんと罪作りだったのかと思います。1036人という若者が命を散らした事実は、とても天皇という一人の人間が背負える重圧ではないでしょう。
事実は軍部の意向だとしても、大義名分として自分のために萬歳と言って死んでいった者がいれば、私ならばとても生き続けることに耐えられないと思うわけです。天皇がこのような事実を知っていたのかどうかはわかりませんが、自分のために死んでいった若者たちについてどのように考えていたのでしょうか。誰が責めなくとも自らの罪の重さについて悩むことがあったのではないかと想像します。
当時使われた戦闘機は、「飛燕」という戦闘機でした。当時の日本軍にとっては唯一の液冷エンジン(水冷エンジンのようなもの)だとのことです。他にも「疾風」と「零戦」が展示されていました。
零戦の設計哲学については、柳田邦夫「この国の失敗の本質」から知りました。米軍機との対比において、日本軍がいかにパイロットの命を軽く扱っていたのかと言うことです。
一例を披露すると、日本軍は少しでも軽く優れた機体を作るために、装甲版がありませんでした。装甲版が無い機体に乗ったパイロットは、後ろから銃撃を受けた場合、簡単に死んでいきました。その点、アメリカの戦闘機には防弾という考え方がありました。多少、運動性能が劣るとしても、人命を守ることが戦争に勝つ手段だと言うことが徹底され、装甲版も厚い物が使われ、被弾してもそう簡単にはパイロットが死ぬようなことはなかったそうです。
優れたパイロットが簡単に死んでいく日本軍。優れたパイロットが撃墜されても救出され、また出撃できる体制があった米軍。長期戦になればなるほど、どちらの軍隊の方が相対的に強くなっていくかは明らかです。
知覧からの特攻隊が、まだ経験が浅い20歳前後の若者たちだった背景には、ベテランパイロットが既に日本にはいなかった証明でもありました。
こんなところにも人間を大事にする哲学があるのか、無いのかによって助かる命と助からない命があることを考えさせられたのです。
知覧の人たちは、特攻の話をするたびに、特攻を賛美しているとの批判を内外から相当受けたのでしょう。説明を聞くと執拗なまでに、特攻賛美を否定し、戦争反対を訴えていました。極力コメントを避け、事実としての知覧を知ってもらいたいとの思いが伝わってきました。知覧の存在が軍国主義的なイデオロギーと結びつくことを、極端にまで嫌っての対応だと思います。
戦争反対は結構なことです。生命尊重はとても大切なことです。
しかし、かの福田恆存は人間の価値観の中で「生命」を一番に持ってきてはいけないと説いています。もし「生命」に一番の価値を見いだしてしまうと、勇気とか自己犠牲のようなまさに限られた人間にしか見られない人間としてすばらしい徳目が尊重されなくなるからだと言うのです。
単に戦争が無い状態に過ぎないとして、平和に最大の価値を見いださなかった保守の論客である福田恆存らしい考え方です。
説明する側が決して言葉には出さなくとも、特攻によって自らの命を散らせた若者たちは、勇気と自己犠牲の尊さを見る者全てに対して確実に教え伝えたことでしょう。
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2010年01月06日