田中けんWeb事務所

江戸川区議会議員を5期18年経験
巨大既存権益組織に斬り込みます!

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日刊田中けん

人間として最低限の入浴条件

 格差社会の議論にすると、必ずと言って良いほど、それを問題視する人は自分自身の生活、または自分が考える最低限の生活を基準にして話を進めようとする。
 たとえば年収300万円などのような基準値を勝手に設定して、その基準値に合った人たちが最大限幸福となるような社会邸条件を整えることが必要だと説く。
 それが自分自身の話ならば、結局のところ「私の生活を楽にしろ」という自己主張に過ぎない。また金持ちによる主張ならば、その基準値がその者が考える想像力の限界値となる。
 格差社会の議論によって、より不幸な対象者を救済したいと考えるならば、私はより不幸な人々として、「捕らわれた人々」を対象者として設定したい。
 「捕らわれた人」とは何らかの事情により、警察によって逮捕、留置された人のことである。そこから始まって最終的には留置場や刑務所を出るか、絶命するまでの「自由を奪われた人」のことを指す。
 社会的弱者と言えば、お年寄りや子ども、女性や障害者、低所得者や震災被害者のことをイメージする人は多いと思う。またそれらの人々に対して福祉的対応をすることに異議を唱える人も少なかろう。 しかし、その社会的弱者の中に「捕らわれた人」は入ってこない。少なくとも政治的主張の中で、彼らの生活向上を訴えた言論を聞いたことがない。よって「捕らわれた人」の生活条件が向上する政治的機会がない。

 日本国憲法は人間として最低限の生活を保障している。最低限の生活とは何か。観念としてではなく、それを具体的に設定することに意味がある。私が考える最低限の生活とは、一日3食の食事と毎日の入浴であると答える。「捕らわれた人」の場合、一日3食の食事は保証されているが、毎日の入浴は保証されていない。彼らにとって見れば毎日の入浴は贅沢な暮らしになる。 現状におけて保証された入浴条件は週2日。それも1回の入浴は15分と決められている。はたしてこれは人間として最低限の生活の基準をして適当なのだろうか。
 たった15分しかない入浴時間は有効に使わなければならない。それが一人用のお風呂ならば、まず入った途端に湯船に注ぐお湯と水の蛇口を全開にする。そして頭を洗い出す。頭を洗っている間に、湯船からはお湯があふれ、食前に入浴した者達の湯船に浮かんでいるアカが少なからず流される。最初の5分で頭を洗い、次の5分で体を洗う。体を洗い終わったら、そのまま湯船に入る。それによって更に表面上のお湯が流され、より多くの他人のアカが流される。
 湯船に入ったらそこから体をこする。こすることによってアカが出て湯船の中にたまる。それをある程度したら後はゆっくりと湯船に浸かる。この間、1回も蛇口は閉めない。温度調整のため、水の蛇口は絞ったりもするが、お湯の方は常に全開である。 監視の人が時々のぞき窓から顔を出して、「あと5分」とか「あと3分」の様に、残り時間を告知してくれる。それに合わせて風呂から出る準備をするのだが、ギリギリまで湯船に入っていたいので、湯船から出たら軽く体を拭いて、すぐに風呂を出る。このとき注意すべきは、最後まで蛇口は全開にしておくと言うことだ。 新人の頃にはそれがわからず、どうしても日常的な習慣から蛇口を閉めてしまう。それが良くない。次に入浴する人に、よりきれいなお風呂に入ってもらおうと思えば、掛け流し状態にすることこそ、マナーである。「捕らわれた状態」での生活とは、狭い空間の中で色々な人がひしめいて生活しているので、意外と皆、他人のために気を遣う。日常生活の何倍も気を遣って生活しなければならない場所でもある。

 たとえばウンコをしたときには、臭いが部屋にこもらないように素早く流さなければならない。トイレを汚したら汚した者が素早く掃除する。トイレのドアを閉めるときは、バタンと音がしないように、ドアよりも少し長く親指を出して、親指を当てながら静かに戸を閉める。お椀を人に渡すときは、口に触れる場所を持たないように、お椀の下を持って人に渡す。などなど、3畳に3人が24時間暮らす生活とはこのようなものである。
 さてこのような生活をして、1分1秒の入浴時間を大切に考える人たちに、毎日の入浴機会を保証することは、過剰待遇なのかどうか是非、御議論いただきたい。

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2010年01月08日