「脱官僚」とか「反公務員」という概念が行き着く先の凄まじさ
議員にとっては選挙が全て。これはもう否定しがたい現実である。選挙を絶対視するからこそ、有権者の気持ちを引きつける効果的なスローガンに、候補者は敏感である。昨今の選挙で流行の「脱官僚」というスローガンは、多くの有権者に選挙への関心を持たせたに違いない。官僚制度に反対していたり、公務員嫌いの有権者は、きっと投票行動における判断材料の一つになっただろう。
自虐的に言えば、確信的な一部の候補者を除いて「選挙に有利だから」ぐらいの感覚で、政策など一夜にして変わってしまう。そのぐらい機を見て敏に動かなければ、すぐに落選してただの人になってしまう種族が政治家である。
小泉郵政選挙の時、どれだけの自民党候補者が郵政民営化に実は反対であるにも関わらず、表面上は賛成していたことか。更に前の話をすれば、本当は小泉純一郎という人物を総理大臣にはしたくなかったのだが、その方が選挙に有利だからと言う理由で、小泉純一郎氏を総理大臣に推した人がどれだけいたことか。あの時の政治現象を覚えている人ならば、政治家が唱える政策スローガンが、いかに軽い物かご理解いただけるだろう。
私とて皮膚感覚としての政策判断として、現状において「脱官僚」というスローガンは正しいと思っている。官僚主導の政治から、政治家主導の政治へと、つまり国民が選んだ政治家によって国家の政治を行おうという、民主国家ならば当たり前の事を、この日本でも実現したいとの思いで主張してきた。この考え方に代表されるスローガンが、「小さな政府論」であり、「民間にできることは民間に任せる」という考え方だ。そう、小泉純一郎元首相が郵政選挙で唱えてきたスローガンそのものである。
このスローガンが郵政問題までで終わっていれば、国民も自らの覚悟が試されることは無かったのかも知れない。しかし、「脱官僚」とか「反公務員」というスローガンを支持する世論がある限り、この考え方は、国民の覚悟を試すほど、凄まじい未来像をも見せようとしている。
今、民主党幹事長の小沢一郎氏と検察が激しく対立している。これを大手新聞やTVのニュースが垂れ流すような、政治資金規正法違反の容疑と矮小化して考えてはいけない。これこそ日本最大の権力闘争であって、民主的な選挙によって選ばれた新政権と難しい試験によって選ばれた官僚主義による武闘集団検察という構図で見なければいけない。新権力と既存権力の仁義なき戦いである。これこそ、民主主義が勝つのか、官僚主義が勝つのか、その正念場だと言える。
結果として、どちらが勝つにせよ、「脱官僚」という政治スローガンは、実現に向けて、一つの頂点を迎えたと言って良いだろう。
しかし、「脱官僚」はこれで終わらない。
池田信夫氏はツイッターの中で、以下のようにつぶやいている。
>気象予報士も「そんな資格は必要ない」という反対論が強かったが、気象庁の天下り先確保のためにつくられた。1200もある国家資格のほとんどが、こういう利権がらみ。
つまり日本にある国家資格のほとんどが、それを資格として受け取る国民のためではなく、官僚の天下り先確保として存在するならば、正に事業仕分けをして、必要が無い資格試験は廃止しなければならない。 「脱官僚」というスローガンは、それを徹底させれば徹底させるほど、確実に私たち国民の日常生活にまでも介入してくるのだ。それを許容できるのか、許容できないのか、そこにこそ「国民の覚悟」が試されていると言える。
例えば以下の通りだ。
池田信夫氏は、この様にも言っている。
>いうまでもないけど、「バカ免許」というのは「栄養士や美容師などの免許制度がバカげたものだ」という意味で、栄養士や美容師をバカだといっているのではない。美容師の免許なんて、アメリカのごく一部の州にあるだけ。
>税理士の免許も、日本と韓国とドイツにしかない。民主党が「規制の仕分け」をするなら、こういう無意味な免許の廃止から始めるべき。
>司法試験についていえば、検事や裁判官は採用試験でスクリーニングできるので、資格認定も必要ない。弁護士については裁判という歯止めがあるので、法学部を卒業したら全員に資格を与えるぐらいで十分。免許の強さは、古くからあるギルド(医師や弁護士)の強さに比例している。
>教員免許もおかしい。大学の教師に免許がないのに、初等中等教育になぜ免許があるのか。まぁ大学の教師の質を見ると胸が張れたものではないが、これも資格認定で十分。
「脱官僚」を支持する国民がいたとしても、では自分が、栄養士だったり、美容師だったり、税理士だったり、弁護士だったり、教員だったりしたら、果たして「脱官僚」「官僚の天下り先の撲滅」というスローガンの元に、それら「今まで自分たちが持ってきた資格を返上しますか」ということが果たしてそう簡単にできるかということなのだ。
これは相当な抵抗が考えられる。つまり、小泉純一郎氏は国民に対して「痛みを伴う改革」を提唱したが、「脱官僚」という政治スローガンの実現に向けては、当然同じようなことを国民に要求することにもなる。
だから、ここにも一つの「脱官僚」を考える上での頂点が存在する。
しかし、問題はここで立ち止まらない。「反公務員」の思想は暴力装置としての「公権力」を民営化していくのだ。
民主党は検察との激しい対立から、検察・警察権力をいかにコントロール可能な「公権力」にしていくかという使命を担っている。「取り調べの可視化」は当然行うとして、検察総長の公選化とか、検察人事における国会承認など、今まで検察が独自にフリーハンドで行ってきた人事業務にまで国会が介入することになって来るであろう。この様な流れは、政権政党と検察の対立によって、ある程度予想されよう。
更に進んで、軍隊、つまり自衛隊の存在がある。
さて、ここで歴史上の話をしよう。
1800年頃のフランスの人口は2800万人。ナポレオン戦争における死者は200万人。その内、フランス軍の死者は60万人から100万人と言われている。フランスの総人口における戦死者の比率は、2.1%から3.6%となる。この比率をそのまま現在の日本に当てはめてみると、次のようになる。252万人から432万人の死者の数となる。
1789年フランス革命以降に、議会制民主主義は確立したと言われているが、民主主義の実現とは、突き詰めて言ってしまえば、軍隊の民営化による圧倒的兵力に頼った総力戦によってこそなしえた壮大な事業だったと言えよう。
細川内閣時において、一番最初に民権政治を訴えた田中秀征氏は、講演の中で以下のように述べている。
現代の日本においては、過去の戦争による反省から「決して認められるべきではないが」という前置きをした上で、徴兵制による軍隊の民営化についても言及している。つまり軍隊が職業軍人だけで構成された場合と、職業ではない徴兵制によって集められた国民によって構成された場合とでは、後者の方が軍隊に「一般常識」が通用することになるというのだ。それが軍隊が暴走しそうなときのブレーキ装置になると。
つまり軍隊とは、外敵に対して戦う武闘集団でありながら、それと同時に反体制を支持する国民に対しても対峙する武闘集団であるということだ。つまり職業軍人だけで構成された軍隊とは、政権交代前の民主党のような政治集団に対しては、武力的圧力をかけ、これを消滅させるだけの潜在能力を持った暴力装置となってしまうということだ。そこに職業軍人だけでない素人の国民も加わっていれば、上司の命令といえども、自国民に向けて銃口を向けることに抵抗感を持つだろうというのだ。
このようなクーデターが起こらないように、軍隊に「一般常識」を通用させるためには、徴兵制も必要になってこようというのが「認められるべきではない」とあえて前置きしつつも、田中秀征氏の考えである。
「脱官僚」とか「反公務員」を突き詰めて考えていくと、当然、この様な境地にまで行くのだ。その時、果たして国民は、軍人となって、この日本という国を守るために、死ぬ覚悟ができますかということだ。
自分とは全く関係が無い官僚や公務員を叩くことに、日常的なストレス解消の意味も込めて、手を叩いていただろう国民は、この段階になって、否が応でも、国の主役へとその責任を担ってもらうことになるのだ。
私は断言する。今の日本国民に、その覚悟はない。
2010年02月17日