幼児虐待防止も、行き過ぎると怖い社会になります。
これからのお話はSFだと思ってお聞きください。
あるご夫婦に待望の赤ちゃんが誕生しました。
そこへ警察官がやってきて、赤ちゃんを引き取ると言ってきたのです。
お母さんは言いました。
「赤ちゃんは、私たち夫婦の赤ちゃんです。なぜ警察が赤ちゃんを連れて行こうとするのですか」
警察官は言いました。
「赤ちゃんは、まだ何も意思表示ができない存在です。もしあなた方、ご夫婦から虐待を受けたら、赤ちゃんはどうなってしまいますか。赤ちゃんには虐待されず、生きる権利があります。どうかご理解ください」
お母さんは言いました。
「私たちの可愛い赤ちゃんなのです。虐待だなんて、そんなことするわけ無いじゃないですか」
警察官は言いました。
「最初は、みなさんそうおっしゃいます。しかし、統計を見てください。幼児虐待を一番しているのは、お母さんなのです。あなたも今は、可愛い、可愛いと言ってはいますが、夜中ずっと泣き止まない赤ちゃんに対して、絶対に手を挙げないということが言い切れますか。安心してください。赤ちゃんは、公的機関によって立派にお育てますから」
お母さんはいいました。
「決して、そんなことはいたしません」
警察官は言いました。
「そうなんです。私たちもそんなにおっしゃるならばと、最初は無理矢理引き取ることもせず、ご両親に赤ちゃんを預けたりもしました。しかし、その結果、幼児虐待の件数は増えてしまったのです。私たちの使命は、幼児虐待の件数を0にすることです。そのためには、全ての赤ちゃんを公的機関で預かって、ご両親と接触させないことが一番効果的だと判断いたしました」
お母さんは言いました。
「それはあんまりではないですか」
警察官は言いました。
「お母さん、いいですか。もしお母さんが赤ちゃんをご自身でお育てになったとして、その間、幼児虐待と思われることをしてしまったら、それは重大な犯罪行為ですよ。近年、未成年者とくに幼児に対する暴力には、厳罰をもって対応することが決まりました。幼児に対して単純な暴力でも懲役刑、障害が残るような暴力には終身刑、もちろん虐待死に対しては死刑が適用されます。これは赤ちゃんを守ると同時に、ご両親を犯罪者にさせないための主旨でもあるのです。どうぞ、ご理解ください」
こう言って、警察官は、産まれたばかりの赤ちゃんを引き取った。このように、赤ちゃんは、成人するまで両親とは隔絶して生活をすることによって、この国の幼児虐待件数は、0になりました。
江戸川区でも、痛ましい児童虐待による虐待死事件がありました。再発防止に向けて、江戸川区としては、最大限の努力を行うと区長自らが議会で答弁されていました。
これからの方向性としては、幼児や児童に対する暴力行為は、成人に対する暴力行為よりも、厳罰化の方向で法改正がされることでしょう。
もし本気で、幼児虐待を0にしようと思えば、私は上記SF話のように、赤ちゃんと両親を完全に分けるということも一つの案だとは思います。しかし、それで人間は幸せになれるのでしょうか。
何かを「徹底して行う」とか、「不退転の決意で行う」とか、政治家は、おもいきり修飾した「聞こえの良い言葉」を使う種族です。 しかし、実際に徹底して何かをしたら、それだけで市民生活は簡単に崩壊します。
交通事故を0にしたい。それならば、この世の中から車を無くしてしまいましょう。とか。
犯罪発生数を0にしたい。それならば、この世の全ての人間を事前に逮捕して、牢屋にいれてしまいましょう。とか。
「そんなバカな」とおもうかもしれませんが、是非、現実に起きている表層的な事件を防ごうとするだけでなく、防ごうとする力学作用によって、未来がどう変わっていくのか、想像力をもって考えていただきたいのです。
我々の平素の市民生活を守ろうと思えば、徹底などしてはいけないのです。いい意味での、「いい加減さ」や「危うさ」の中で生きてこそ、当たり前の市民生活は実現できるものだと、私は信じています。
もちろん何でも規制強化に反対するという主旨ではありません。徹底しすぎる行為が、逆に一般市民の生活を壊してしまうことも十分ありうるのですよという可能性に対する言及だとご認識ください。
先ほどお話しした、「全ての両親と赤ちゃんは、産まれた途端に、公的施設が引き取り、別々に生活させましょう」
この様な命題にOKする人は、今はまだ少ないでしょう。
では、次のような命題の場合は、どうでしょうか。
両親のどちらか一方に、暴力事件を起こした前科がある者がいた場合、赤ちゃんは公的施設が引き取りましょう。
両親のどちらか一方がまだ、未成年者だった場合、成人になるまでの間、赤ちゃんは公的施設が引き取りましょう。
制度というのは、自分が「向こう側にはいない。自分には関係ない」という安心感から、他人の権利を制限しようとして始まります。「あなたと私は違う。あなたには厳しく対応してもいい。でも私にはそんな対応はして欲しくない」
この様に一見自分とは関係が無いと思われる他人の権利を侵害していくことが制度になるわけですが、それはドンドン拡大するに従って、実は徐々に自分の権利までも侵されていくことにつながるのだと理解してください。その内、「これだけ多くの方々の赤ちゃんが、公的施設で見ているのですから、これからは全ての赤ちゃんを公的施設で見てもらいましょう」
そうならないとも言えないのです。
世の中は、一足飛びには変わりません。しかし、確実に犯罪防止の大義名分の元、私たちの市民生活は、どこに世論の最大公約数があるかを見極めながら、公権力の「慈愛に満ちたあたたかいお節介」によって、侵されていくのです。
痛ましい事件は、これからも次々と発生することでしょう。もちろん、その防止に向けた対策などは大いに話し合われるべきです。しかし、あまりにも極端に犯罪防止の名を借りた、市民生活への介入には注意をした方が良いのです。それは仮に犯罪防止に逆行することになったとしてもです。
何か事件がある度に、「警察は何をやっていたんだ」、「行政は何をやっていたんだ」、「先生は何をやっていたんだ」と、公権力にその責任を問う声が上がってきます。その声が大きくなればなるほど、国家公認の暴力装置である警察を先頭にした行政は、確実に、あなたの日常生活に介入してくるのですよ。
そう。我々市民とは、警察にとっては常に「犯罪者予備軍」なのですから。
2010年02月22日