人を殺す覚悟
アニメ「最終兵器彼女」第6話「クラスメイト」より
海を眼前にした砂浜にて、防波堤のコンクリートを背にして座っている二人の男子高校生の会話
アツシ「さっきさ、アケミに呼ばれてさ」
シュウジ「ん?」
アツシ「やっぱ俺とつきあってくれるってさ」
シュウジ「ウソ?」
アツシ「ウヘヘヘ。まじまじ」
シュウジ「やったべや、やっぱアツシに同情してくれたんだべ、アケミ」
アツシ「バカ、そんなんじゃねーつーの」
二人「ウハハハへへへ」
アツシ「これで、未練なく戦いに行けるわ」
シュウジ「なっ、アツシ」
アツシ「シュウジ、悪りっ、もう決めたんだ。ずっとさ、実は札幌空襲にあって、目の前でタケが死んだのを見たりした時から、俺に何ができるかってこと、ずっーと考えてたんだ」
シュウジ「はぁ」
アツシ「何でも良いんだ。どうせ何が正しいかなんて、わかんねーんだし。ただ、わかんねーけど、このまま何もしないことだけは間違ってるような気がすんだ。本当は死ぬかもしんねーし、めちゃくちゃこえーんだ。でも俺、好きな女や家族を守れんなら、そのためなら死ねるかもって。なんか思うんだ」
シュウジ「アホォ」
アツシ「ん?」
シュウジ「おめーが死ぬんならいいよ。どうせ爺さんになったら死ぬんだ。勝手に死ね。それなら俺だって、テメーの墓の前で泣けるべや。でもよ、戦争って、死にに行くところでないべ。人を殺しにいくんだべや。殺すのか。アケミのために人を殺すんか。殺せんのかよ」
アツシ「・・・・・・・・・・・」
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今の日本人に一番足りないこと。それは「人を殺す覚悟」だ。
よく凶悪犯罪が報道されたりすると、被疑者に対して軽々しく「こんな奴、死刑になってしまえばいい」という声を聞く。
私は死刑に対して、とても懐疑的だ。懐疑的というか、反対に近い立場だ。しかし、完全に反対だとも言えない。自分の恋人や肉親を殺された場合、きっと自分自身も犯人を殺してやりたいと思う心を抑えきれないだろうからだ。
私が限定的に肯定できる死刑があるとすれば、対象者となる「人を殺せる覚悟」を持った者だけが下せる判断だ。「人を殺す覚悟」とは、それほどまでに重たい決断だ。だから、「私は人を殺せる」そう言える人が、死刑制度を望むのであれば、私とは立場は違うが整合性は認める。
しかし、「自分は人を殺せない」という覚悟無き人間がいう死刑制度の存続は、とても納得できる話では無い。決して自らの手を汚すことなく、誰かの手を汚すことによって、自らの思いを達成しようとする、その安易さを私は認めることができない。人を殺すとは、そんなに軽いことじゃない。極端な話、もし対象者が冤罪で、自らの判断で死刑にしてしまったら、死刑と判断したあなたもその罪をかぶって死ぬことができますか。そういうことだ。裁判官、あなたは間違った判断をして、被疑者を死に至らしめた場合、その罪を償って、同じ死刑を受けることができますか。そういうことだ。
裁判員制度を逃げ回っている国民が多数いるこの日本には、同時に死刑制度の存続を求める人間も多数いる。とても人を殺すことを覚悟した国民がこの日本に多数いるとは思えない。はたして、その程度の考えで、死刑を存続させていいんですか。
「人を呪わば穴二つ」
こんな言葉がある。
平安時代にあって、陰陽師が人を呪殺しようとするとき、呪い返しにあうことを覚悟し、墓穴を相手と自分の分も含め、二つ用意させたことに由来するという。
人を呪い殺すにはそれなりの覚悟が必要だという意味だ。現代風に直せば、相手を殺そうとするならば、自分も殺されることを覚悟しなければならないということだろう。だからこそ、そう簡単に人を殺そうとは思うなよと言う戒めでもあったという。では、場合によっては、自分が死んでも構わないと思うほどの「人を殺す覚悟」が、死刑を肯定する今の日本人の心の中にあると言えるのだろうか。
死刑制度でさえこの程度の思いなのだ。ましてや兵役とか、戦争などとなれば、人を殺す覚悟の無さ、自分が殺されるかも知れないという想像力の欠如は、色々な局面で顔を出してくることだろう。
時には、私たちに代わって、人を殺すかも知れない仕事に携わっている人たちへ思いを寄せてみるのも、決して悪くは無いことだ。
民主主義とは国民が主人公となる政治制度である。それは国民が政治家から最高権力者となり、国民が裁判官となり、国民が警察官となり、国民が軍人となり、国民が死刑執行人になる制度だ。権力の現場に立つ覚悟がない国民で構成された国家であっては、民主主義は上手に成立しない。
「政治は官僚に任せてしまった方がいい」と、国民の内なる声は、時代を逆戻りしたがっているようにも聞こえる。
2010年03月05日