アニメ「おおかみかくし」を見て
原案・監督は、「ひぐらしのなく頃に」と「うみねこのなく頃に」の竜騎士07である。
物語は、嫦娥町(じょうがまち)という新興住宅地を舞台にしている。新興住宅地とは言っても、町は河川を挟んで、旧市街と新市街に分かれている。
主人公の九澄博士(くずみひろし)が高校一年生として、この町に引っ越してから物語は始まる。
さえないタイプの男の子に過ぎなかった博士ではあったが、この町に来た途端、男の子からも女の子からもちやほやされるようになった。妹のマナからは「モテ期」といって冷やかされていたが、実は違っていた。
博士の父親は、九澄正明と言って、民俗学に基づく伝奇的な小説家である。また博士のクラスメイトには、最近転校してきたオカルト好きで、正明の小説のファンでもある朝霧かなめがいる。
放課後の学校の図書館にて、九澄博士と朝霧かなめの会話。
ひろし「話って何かな。今日、マナを迎えに行かなくちゃいけなくて」
かなめ「あ~、ごめんなさい。でもちょっと聞いていただきたいことがありまして。本当はお父様にもご意見をうかがいたいんですけど」
ひろし「ふ~ん」
かなめ「嫦娥オオカミのことです」
ひろし「あっ」
かなめ「もともとオオカミ様って、この土地で崇められている土着神ですよね。この一帯には昔、オオカミが生息していて、そのオオカミの化身がオオカミ様となり、この町を守っていると言われています。前に、はかせ君のお父様とオオカミ様と嫦娥オオカミのこと話したの覚えてます?」
ひろし「あ~」
・・・・・・・・・・・ひろしの父親との会話の回想シーン・・・・・・・・・・・・
かなめ「もしかして、山にはまだ嫦娥オオカミの生き残りがいるんでしょうか」
父正明「いるとおもいたいね。野生動物がひっそりとは生きにくい時代だけど、オオカミ様の伝説の残る限り、嫦娥オオカミもまた生き続けるんだよ」
・・・・・・・・・・・回想シーン終わり・・・・・・・・・・・
かなめ「そう答えられました。でも私はむしろ逆じゃないかと思ってきたんです」
ひろし「逆って」
かなめ「今なお生息する嫦娥オオカミの存在を、オオカミ様と信仰したり、伝説で語ることで打ち消しているんじゃないかと」
ひろし「じゃー嫦娥オオカミは今もいると」
かなめ「えー、ただそれは、私たちが考えているオオカミとは違ったものなんじゃないかと」
(かなめは大きな本を取り出して、それをひろしに見せながら話し始める)
かなめ「昔、このあたりにいたと言われる大型のオオカミ、嫦娥オオカミです。でも調べれば調べるほど、正体がぼやけてきてしまうんです」
ひろし「どういうこと?」
かなめ「本当に生息したにしては、証拠が乏しすぎます。第一、嫦娥町以外で存在が認められないのも、なんか不自然です。一つ、私なりの仮説を立てたんです」
ひろし「仮説?」
かなめ「もし嫦娥オオカミが、普通のオオカミとは全く違った種だとしたら、どうでしょう」
ひろし「えー」
かなめ「たとえばそれは人間並の知能を持った生物だとしたら。人狼とか」
ひろし「人狼?」
-------------------------------
そう、嫦娥オオカミは、人間に知られることなく、この地でひっそりと暮らしていた。人間の姿をした人狼として。彼らは自分たちのことを神人(かみびと)と呼ぶ。
しかし、この地が開拓され、外部からの人間が増えてからは、神人と人間の間でトラブルが増えてきた。特に特定の人間が放つ「みつ」と呼ばれる特異な匂いに引きつけられた神人は、時に狂ってしまう。それはまるで、神人にとってはフェロモンのような物質として作用し、自分が自分で無くなってしまうほど神人を狂わせてしまう。それには、どんな神人もあらがうことができない。そのような衝動を抑えきれなくなって、狂ってしまった神人は人間を襲ってしまう。前述した九澄博士が、男女からもチヤホヤされたのは、彼の体質が、異常に強い「みつ」を発しているからであった。何も彼が一般的に異性を引きつける魅力にあふれた男性であったという理由からではなかったことが、物語の途中から明らかになってくる。
さて、人間を襲ってしまい、神人の存在が世に明らかになってしまうと、絶対的少数者である神人は、この世の中には生きてゆけない。よって、掟を破り、理性を失い、狂ってしまった神人は、別の神人から始末されることになる。
その仕事は、狩り人様と呼ばれる選ばれた神人が行うことになっている。
このように、同胞が生きていくために、同胞自らが同胞を殺すという設定に、何かやるせなさを私は感じていた。テーマは人間との共生。絶対的弱者である神人が、自らに課した掟。その掟に反した神人は、狩り人様によって、殺されてしまう。
昔、ホームレスがホームレスを殺すという事件があった。犯行動機は、仲間のホームレスが目に余った行動をするようになったので、このままでは地域住民に迷惑をかけてしまい、それを理由にその地から追い出されてしまうことを心配した者による犯行だった。
絶対的弱者が、強者に対して異議申し立てをしたりとか、反抗したりとかするのではなく、自分たちがひたすら従順に生き続けていこうとするために、本来自分たちの仲間である者を、「ルールを破った」という罪によって、殺してしまうこともある。そんな構造が見えてきた。
人身御供もまた、この考え方を実際に行った儀式である。人間を神への生贄にする行為は、古代の人間社会にあっては、特別珍しいことではない。どこの地域にあっても行われてきたことだ。
戦国時代にあって、城主の首を差し出せば、城下の者達の命までは奪わないと約束して、相手を降伏させることは、条件として多々あった話だ。
1582年、本能寺の変を知った羽柴秀吉は、城主の清水宗治を切腹させることによって、城兵の命を救い、和議を成立させ、明智光秀と対決すべく近畿へ引き返した。俗に言う「中国大返し」である。
中国で麻薬で捕まった邦人が死刑にされた。現代の狩り人は、死刑制度によって、同胞を殺し続けている。欧州では禁止されている死刑は、米国でも僅かしか実行さていない。日本では、死刑制度はあれど、非常に限定的に行われている。麻薬で逮捕されて死刑になるなど、日本ではありえない。
しかし、ネット世論を見てみると、死刑になった邦人に対して、自業自得というか、死んで当然という意見が意外と多い。
それでは、日本は中国に対して、圧倒的に弱者だというのだろうか。法律という“掟”を破った者に対しては、何をしてもいいと言うのだろうか。何をされても、異議申し立てができないと考えるべきなのだろうか。
冤罪とか適切な量刑に対する考察をせず、「悪いことは悪い」という発想で、短絡的に死刑を肯定する日本の世論に、私はついて行けない。罪人には、殺さずして罰を与えることもできるし、生かしておけば、冤罪であった場合などは逆に国家的に償うこともできる。目には目を、歯には歯をの精神からしても、麻薬で死刑は、やり過ぎだ。
前からずっと思っていたことだが、金メダルを取るような日本人に対しては、チヤホヤする軽薄さを持ちながら、世間の恥と思われるような“逆境にある”日本人に対して、非常に冷たい国民が、日本人である。
2010年04月10日