謝罪について考える
NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」に出演中の俳優向井理(おさむ=28)が22日午前、東京都世田谷区の路上で追突事故を起こしていたことが分かった。
この事件のあと、本人がブログの中で自分の言葉でファンに対してメッセージを送った。
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皆様お久しぶりです。
まず、多大なご心配をおかけしまして申し訳ありませんでした。
でも車にも自分にも怪我はなく、毎日しっかり働いております。
二度とこのような自分の不注意での騒動を起こさないよう心掛けて参ります。
今回の件を受けて、会社の人間にも『俳優なんだから、これからはお芝居で返せ』と言われました。自分ではこれからを頑張るしかないので、今まで以上に一生懸命邁進するのみです。
ただ、このおかげで色んな人の優しさに触れることができました。改めて沢山の人に支えられといるんだなと。
皆様ありがとうございました。
これからも宜しくお願いします!
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政治家は公人。芸能人は準公人。準公人といえども、下手な公人よりも、よほど準公人の方が知名度はある。
俳優向井理もテレビによく出てくる分だけ、普通の国会議員よりも数倍、知名度は高いだろう。それで、このような謝罪のコメントである。
この記述を文章事に簡素化して表現する。
① ファンに対する謝罪
② 車と自分が無事である報告と事故後の生活ぶり
③ 二度と過ちを起こさないという決意
④ 本業の俳優業を精一杯行うという決意
⑤ 自分を支えてくれた人に対する感謝
⑥ 全ての人に対する感謝
⑦ これからもよろしくという挨拶
もし私が彼と同様の交通事故を起こしてしまい、多くの区民や支持者に対して心配をかけてしまった場合、私ならば、ここで何とコメントするだろうか。
彼の記述の中で、②以外は問題ない。いや②が大いに問題だ。自分の車の状態を報告する余裕あるならば、被害者に対する謝罪なり、被害者に対する現状の報告を、なぜ彼はファンにしなかったのだろうか。
今回の事故は、被害者がいるから起こったのだ。被害者がいなければ事故とは言わない。事故の相手がどうなっているのか、身体は問題ないのか、事後の話し合いはうまくいっているのか。ブログを読む者としては、それらの被害者に関する話題が一番聞きたいのではないだろうか。何かの諸事情があり、加害者のことに関して記述できないのであれば、少なくともその記述できない事情について軽く触れておくのも悪くない。
よく警察が取り調べている最中なので話せないとか、裁判中だから話せないとか、相手の方は一般人なので、あまり公の場で取り上げることは差し控えないとか、何か言い様はあるだろう。
極端な話、仮に被害者が、この事故が原因で死亡してしまった場合を想像して欲しい。どんなに自分の車にも自分自身にも怪我もなく、決意新たに俳優業に取り組もうと思っても、周囲の方々に感謝し尽くしても、周囲は仕事の再開を許さないだろう。つまり彼の俳優業に対して、今、決定的に影響を与えるのは、被害者の身体の状態であり、被害者と彼との関係なのである。だからこそ、今、ここでファンに報告する文章の中では、一番の優先して書かなければならないことは、被害者の話題なのだ。
それなのに、彼のブログには被害者のことが何も書かれていない。彼の価値観の序列の中で、被害者が一番となっていない。いやむしろブログの中では、全く触れられてもいない。悲しいかな、それが事実としてわかってしまう文章だった。
ブログの中に、被害者が存在しない、何かすがすがしい印象さえ受ける文章に大いなる違和感を持ったのは私だけだろうか。私のコメントは、彼のファンからすれば、揚げ足取りに解釈されるかもしれない。しかし、ファンでない者からすれば、この様な解釈も十分されるのだ。芸能人と言えども準公人である。私などよりも、よほど知名度がある人である。公に発表する文章は、誰がそれを見ているかわからない。だからこそ、私のような者に、この様なコメントをされることがないように、所属事務所も含めて、彼が働くことで利益を得ている人たちが、彼の一挙手一投足を見守らなければならない。彼を守ることが、自分たちの利益になるのだ。謝るべき時にはしっかりと謝らせる。それそこ危機管理というものだ。
事務所にとって、芸能人は自分たちに利益をもたらす優れた商品だろう。それならば、商品管理はしっかりと。
彼が自分の車を擬人化したので、私はあえて彼を「擬物化」してみた。
2010年05月04日