わかりやすい演出によって、捨てられてしまう味
カルト×合理性、「鉄男」世界仕様に 米の映画祭で上映
2010年5月4日 asahi.comより
暴力、猟奇、エロス。カルト映画の世界で絶大な人気を誇る塚本晋也監督の看板作品「鉄男」シリーズの新作「鉄男 THE BULLET MAN」が4月、米ニューヨークのトライベッカ映画祭で上映された。怒りで体が鋼鉄に変化する主人公の設定はそのままに、世界でうける「カルトな娯楽映画」を目指す監督が出した一つの答えとなる作品だ。
3月、人道や環境問題に貢献した映画人を顕彰する「グリーンプラネット映画賞」に参加するため訪れた米ロサンゼルスで、塚本監督に話を聞いた。
「鉄男」シリーズの第1作は1989年に誕生した。変哲のない暮らしをしていた男の生身の身体が全身まるごと鉄で覆われ、さらに銃器と化していく。男自身は、その変身の訳が分からない。ホラー色を色濃く帯びた不条理劇だ。
それから20年。シリーズ3作目となる今回の「鉄男 THE BULLET MAN」制作の話は、米国で持ち上がった。シリーズ2作目の「鉄男II BODY HAMMER」(92年)を映画祭で見た米ハリウッドのプロデューサーから「米国版を作らないか」と持ちかけられた。プロデューサーを買って出た中には、クエンティン・タランティーノ監督もいた。
だが、壁が立ちはだかった。「鉄になるのはおもしろいけど、何で鉄になるのか分からない」。それが、米国のプロデューサーたちの意見だった。
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「鉄男」という作品には注目していたが、私はこの作品を見ていない。しかし、この作品が不条理演劇であることはわかる。
私はこれまでいくつもの不条理な作品を見てきた。
物語の展開に不条理はつきものだ。たとえば動機なき殺人など。殺人には動機を必要とすると考えるのは古い考え方であって、少なくともフィクションの世界では、動機など無くてもすぐに人は殺される。
普通の作品には必ずと言って良いほど、予定調和的な展開が待っている。言葉として出てこなくても、隠されたテーマは確実にそこには存在する。
「正義は勝つ」
「努力は報われる」
「主人公は死なない」
「主人公は汚い手段を使わない」
ちょっと想像しただけでも、この様なテーマが思いつくのだから、研究者ならば、予定調和的な展開の作品から、もっと多くのテーマを見つけ出すことは容易いだろう。
予定調和的な作品とは、人間として行うべき「良きこと」とは何かを、その作品の中にメッセージとして視聴者に伝えている。主人公が正義として描かれ、主人公と対立する者が悪党として描かれるのは、そのためだ。視聴者は主人公を中心に描かれる作品の中で、容易に主人公に共感し、同化する。視聴者は主人公の目を通して、その作品を見ているからであって、主人公=視聴者となる。
そこには理で説明できる世界があって、不条理なことは何一つ存在しない。物事の全てを理解しなければ気が収まらない人にとっては、予定調和的な作品が一番性に合っていることだろう。
TV「水戸黄門」などはその代表作と言える。
しかし、不条理な作品とは、「なぜ」と問うてしまうと、一気につまらない話になってしまう。視聴者の中には、物語の展開を理解できず、その場面で立ち止まってしまう者もいることだろう。そのような人に不条理演劇は向かない。
>「鉄になるのはおもしろいけど、何で鉄になるのか分からない」。それが、米国のプロデューサーたちの意見だった。
この意見に代表されるように、一般化を狙うからこそ、不条理を言葉で説明しなければならない。不条理を説明しなければならない不条理に、制作者は大いに悩んだであろう。不条理な作品を不条理でない作品に変えなければならない。それそれ、制作者にとっては、拷問のような対応だ。
どんなに努力しても、結果は報われない。
どんなにその人のことを好きになったとしても、相手は自分のことを好きになってくれるとは限らず、その相手は、どう見てもつまらない、かつ悪党と思えるような人と一緒になったりする。
よかれと思って行ったのに、それによって相手から大いに恨まれる。
不条理と思えるような人生の展開はいくらでもあるが、そのようなことが現実社会には大いにあることを十分知っていながら、政治家は不条理な政策を語れない。それは前述したように、「一般受け」という壁が立ちはだかっているからだ。「マニア受け」で良ければ、カルトとも言える狭い範囲の対象者だけを相手にしていればいいのだが、選挙が大きくなれば大きくなるほど、カルト的な振る舞いは理解されないし許されない。
小選挙区制は、より「一般受け」する候補者を議員へと押し上げることができるが、カルト受けするより「個性的な」候補者を議員として押し上げることはできない。
政治家が語る政策とは、面白みが無く、抽象的で、無難なことしか語られないのは、より多くの人たちから支持されたいと思うからこそであって、何もその人に語れる能力が無いと考えるのは早計だ。
学者と政治家は違うのだ。当然、それは職業上の語り方にも大きく影響を与えてしまう。
しかし、そんな大衆相手に選挙を戦う場合、もしそこにカルト性を少しでも加味したいと思えば、小泉元首相が展開したように、「たった一つのことだけを言う」という戦略が極めて正しい。たった一つならば、マニアックな政策であっても、有権者は正しく理解してくれるかも知れない。
これまで私もなるべく多くのことを語らないようにしてきた。高速道路とタバコと都市の過密化。主要な主張は、このぐらいであり、またはここから派生した問題を語ってきたに過ぎない。わかってくれる人だけがわかってくれればいいというスタンスとは、決して多数派にはならない。それでいいと開き直っている。
邪道であるとは承知しているが、私はこれからも、政界の中ではマニアックな立ち位置で主張し続けていきたい。
2010年05月07日