日常的な不満は政治家に向けられる
この前の朝、駅頭でチラシをまいていたら、一人のご婦人が、「民主党は水害対策もせずに全く何やっているの」と怒りながら、独り言のように大声を上げて、目の前を通っていった。
2010年6月から7月にかけて、九州・中国地方を中心に、大規模な水害があった。多くの方々が被災し、無くなった方もいた。
東京では、全くそのような気配は感じられなかったのだが、この様な報道が連日に渡って流されたので、実感は無くても、その酷い状況は、映像を通じて、日本全国の人たちにも知れ渡っていた。
その憤りがあったのだろう。だからこそ、私の前を、通り過ぎたご婦人は、大声で、その憤りを私にぶつけたのだと思う。
しかし、私は、ご婦人が怒っていた理由は、それだけではないだろうと考えている。
人は、日常的に抱えるストレスが、問題解決によって解消しないときに、別の何かにその怒りをぶつけることによって、一時的な代替的解消を図ろうとする。
昔は、日常生活の中に当たり前のように差別があった。目に見える身近な誰かを差別することによって、蔑むことによって、ストレスが解消していた。
しかし、いつしか差別は良くないことだとなった。差別が良くないこと、つまりやってはならないことになったため、人々が抱える日常的なストレスは、そのはけ口を求めてさまようことになった。
そして見つけた対象者が犯罪者である。犯罪者とは、悪い人である。だから、この悪い人を批判することに、誰も文句は言わない。人々の批判は、犯罪そのものと言うよりは、犯罪を強く憎むことによって、その人が持つ日常的なストレスを発散させる効果を持つようになった。
それはかつて、差別することで、自らのストレスを解消してきたときのような働きであった。
昨今の警察の動きとは、微罪逮捕と長期勾留であるが、これは陰に陽に世論の後押しもあって実現している現象として認識しておいた方がいい。
良いと悪いの間に量刑という発想が介在しないと、「悪い者は全て死刑に」という極端な主張が出てくる。悪は悪だ。悪に対しては、どんな処罰を行っても良い。
この様な発想が珍しいとも思えない世相とは、現代人のストレスが犯罪者に向かって解消されようとしている傾向を物語っている。
冒頭に紹介したご婦人の怒りのように、大衆のストレスのはけ口は、犯罪者だけでなく、政治家にも向かっている。別に最近になって顕著になったというわけではないが、政治家が常に批判される対象であるのは、そのためだ。自分ではどんなにいい仕事をしたと思っていても、批判される場合もある。わかっている人だけが支持してくれればいいと割り切っていても、批判される度に、政治家は孤独を味わう。
でも、その批判を受け止めるだけの度量がない人物は、政治家に向かない。政治家に向く人材とは、どんなに批判されても、じっと我慢して耐えることが出来る人物だ。だから、調子が良いときに、その人物の政治家としての力量は見えてこない。むしろ、旗色が悪くなったときにこそ、その人物が政治家としてふさわしいのか、そうではないのかが、よく見えてくる。
私は大衆の日常的なストレスが、政治家に向かっている時代は、まだ良い方だと思う。それによって、多くの人たちが、代替的かつ一時的とはいえ、救われるのならば、それで良いと思う。
良くないのは、そのストレスが、自らに向いたときだろう。一般の人は、政治家ほど、批判されることには慣れていない。その慣れていない人が、自らが、自らを批判するようになるとどうなるだろうか。
精神を病んだり、最後には自殺したりするようになるかもしれない。
もう既に、現代の病理現象は、現在進行形である。
何かの問題を、全然別の誰かの責任にすり替えて考えられるというのは、実は優れた自己防衛能力だとも言える。本人にとっては、幸せなことなのだ。
そう考えていれば、日々、批判され続けている政治家も、少しは気が紛れるようになるかも知れない。
2010年07月19日