あっさりした日本人の国民性
海外旅行をしてみると、食べ物とその国の国民性は、関係性があるなと思うことがある。
日本以外の特定の国については深くわからないが、日本の食べ物と一般的な外国の食べ物との違いについてはよくわかる。
外国の食べ物とは、一つ一つの味がハッキリしている。甘い物は甘い。辛い物は辛い。苦い物は苦い。酸っぱい物は酸っぱい。
それに比べて、日本の食べ物とは、「甘さ控えめ」などという表現が、価値を持つように、ハッキリさせないこと、抑制的な表現であることを美とする意識がある。食べ物ならば、それをおいしいと感じる。
「あっさりしている」
これは日本の食べ物文化の中では、決して悪い意味では無く、むしろ良い意味で使われることが多い表現であるが、これを外国の食べ物の基準と照らし合わせると単に味が薄いだけの食べ物という、悪い表現のようになってしまうことだろう。
良くも悪くもあっさりとした国民性を持つ日本人が、何かを突き詰めて考え行動することは苦手なのでは無いかと思う。
8/14のNHKでは、『日本の、これから「ともに語ろう日韓の未来」』と題するTV番組が放送されていた。
韓国側からは、「日本人は植民地支配に対して謝っていない」との指摘があった。
日本側からは、「既に日本は謝っている」との指摘があった。
韓国側からは、「日本は心から謝っていない」との指摘があった。
日本側からは、「いつまで日本は謝り続けなければならないのだろうか。結局、韓国は日本が謝り続けても許しはしないだろう」との指摘があった。
このような、水掛け論にも近い話を聞いていると、やはり日本人は、過去の歴史的認識について、あっさりした国民なのだと思わざるをえない。
はたして、日本はこれと同様な憎しみをアメリカに対して持ち続けることができるのだろうか。原爆という、大量破壊兵器を二度も落とされて多数の同胞を殺されているのにだ。
原爆投下に対して、アメリカは日本に謝罪をしていない。『真珠湾攻撃をした日本が悪いから、原爆を落としたのだ」として、自分たちの正当性を未だに主張している。謝罪をしていないのにも関わらず、日本をアメリカを名指しして批判することはしていない。事実上、許しているようにさえ見える。
国民性の違いと言ってしまえばそれまでだが、日本人とは、加害者としても被害者としても、過去の罪に対して、強く憎しみ続けるような人々ではない。
死刑に関して議論すると、廃止するにしろ、存続するにしろ、私が指摘するのは、憎しみが持続しない日本人の国民性を前提にすれば、死刑は制度として馴染まないのではなかろうかということだ。
しかし、一方で、世論調査などをすると、未だに死刑存続に賛成する国民は多い。
この意識の違いは何なのだろうかと考えてみた。
これは憲法9条は改正せず、平和憲法は保持しつつ、日米安保条約は堅持するという日本の判断と同じなのでは無いだろうかと思う。
つまり、日本は戦争には参加したくない。しかし、一方的に攻められるのは嫌だから、日米安保によって、米国により日本を守ってもらおうとする意識はある。
これと同じなのではないだろうか。
簡単な言い方をしてしまうと、この根底に流れている意識は、自分の手を汚したくは無い。しかし、誰かにその仕事をやって欲しい。このような徹底した他力本願があると思っている。
2010年3月5日の日記でも触れたように、日本人のほとんどは、できれば裁判員制度のような面倒な義務には関わりたくないと思っている。また仮に関わったとしても、死刑判決を出すように、そのようなことはしたくないと考えている。私は、そのような日本人像を想像する。
この様に覚悟も決意もない日本人ではあるが、他人(=国家)が凶悪犯を殺してくれるというのならば、「どうぞ殺してください」という意識なのだろう。
今さらながら、日本人が持つあっさりした国民性を否定するつもりはないし、それはこれからもずっと日本人に共有される価値観ではあるだろうが、死刑の問題にしろ、国防の問題にしろ、「自分はやりたくないけど、誰かがやってくれるというのならば、どうぞやってください」という態度は、通用しなくなってくるだろう。
今、政治的な流行でもある地方分権は、国政においては、これまでそれほど語られてこなかった外交と防衛について集中的に語られる機会を与えるに違いない。また地方分権の延長線上に、日本国民個人が持つ権限が大きくなるにつれ、他人任せにはできない、まさに国民一人一人が権力者として振る舞う責任を求められる時代がやってくるに違いない。
しかし、政治家が地方分権を叫べば叫ぶほど、また国民がそれを支持すれば支持するほど、実態としては、それとは真逆の中央集権により、「他人任せ」を望んでいる国民の真の姿が、これから浮き彫りになってくるだろう。
分権なのか、集権なのか、どのような国家体制になるにせよ、日本人一人一人が、日本国民として、より自立した責任ある対応を求められていく方向性は変わらないだろう。
2010年08月14日