田中けんWeb事務所

江戸川区議会議員を5期18年経験
巨大既存権益組織に斬り込みます!

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日刊田中けん

プリンシプル(原理原則)とは

 プリンシプル(principle)を辞書で引いてみると、原理・原則・主義・信条という意味が載っている。


 どんな時でも物事を原理原則的に考えられるのか、それとも考えられないのか、それによって判断は大きく違ってくる。


 今回の尖閣諸島における一連の中国人船長逮捕・釈放劇は、民主党内閣にプリンシプルが無かったことを証明してしまった。
 日本の領海を不法に侵し、海保の指示に従わなかった者は最終的に逮捕する。これがプリンシプルだ。逮捕、勾留、起訴または不起訴が、被疑者に対する一連の流れとなる。これもプリンシプルだ。
 しかし日本は場当たり的でとてもプリンシプルに基づいた行動とは言えなかった。中国人の逮捕までは良かったが、まず船長以外の乗組員を全て釈放してしまった。それに海保の船にぶつけてきた船まで返してしまった。なおかつ勾留し続けた船長は容疑を否認していた。このように容疑を否認している相手に対して、弁護士以外の者、具体的には中国政府の関係者との接見を認めてしまった。これは通常、日本人の場合、相手が肉親であってもあり得ない。
 被疑者が否認している場合は、23日間の勾留期限ギリギリまで勾留を続けることが一般的だが、中国人船長の場合、4日間も前に釈放してしまった。
 これも独自判断といいつつも、実際は、中国の度重なる釈放要請に屈服して釈放したに過ぎず、言ってみれば、中国の圧力に敗北したのである。これがプリンシプルのある行動とはとても言えない。


 プリンシプルとは、対象者が誰であれ平等に扱うのがプリンシプルである。「法の下の平等」という理念が正にそれを表している。では、今回の中国人船長は、「法の下の平等」であっただろうか。いや日本人や他の外国人に比べて、明らかに優遇されて釈放されたのだ。平等ではない。これでは、日本が法治国家であるとは到底言えない。
 また今回は中国が釈放に向けて、あからさまな圧力をかけてきた。度重なる釈放要求、フジタの社員を別件で逮捕するという「人質外交」、更に「レアアースの禁輸」などのカードを次々と切ることで、中国政府が、今回の中国人船長の勾留に対して怒っているというメッセージを日本政府に投げかけてきた。
 前原外務大臣は、当初から「これは国内問題だから、国法に基づいて粛々と対応する」と言っていた。この考え方がプリンシプルである。それにも関わらず、仙石由人官房長官が横やりを入れて、早期釈放へと道を開いてしまった。「政治的配慮」と言えば聞こえは良いが、これら一連の無原則な行動が、結局は日本がプリンシプルなき国家である根拠となっている。


 今回、盛んに言われてきた「政治的判断」とは、「政治的に損得を考えた場合、このままだと日本の損になるから、法律を無視して対応します」ということと同義である。
 ここで重要なのは、「プリンシプルを実行する」とは、損得に関係なく動かなければならない。だから、プリンシプルが光り輝くのは、このままだと、大損をするという自らの危機に立たされたときなのだ。自ら選択の帰路に立たされたとき、その場しのぎのためにプリンシプルを放棄してしまうのか、それともどんなに辛くてもプリンシプルを貫くのか。そこでプリンシプルの価値が決まってくる。


 「国内問題である」という建前ではあったが、今回の中国人船長の釈放劇は明らかにプリンシプルを欠いた外交によって、場当たり的に対応されてしまった。政権慣れしていない民主党閣僚たちのアタフタした顔が目に思い浮かぶようだ。外交無策の民主党政権は、一刻も早く打倒した方がいいのかもしれない。1期4年間の衆議院の任期中だけは民主党政権でと思っていたが、あまりにもふがいない政府の対応に、私の我慢も限界に近づきつつある。


 民主党批判はこの程度で良いだろう。バランス感覚を取るためにも、野党及び国民の意識に対して批判をしておく。
 それはマニフェストに対する考え方だ。
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2010年6月14日 asahi.comより
 朝日新聞社の12、13日の全国世論調査で、子ども手当の満額支給(月額2万6千円)を断念することへの賛否を尋ねたところ、賛成が72%を占め、反対は21%だった。


 子ども手当は今年度は月額1万3千円だが、民主党は昨年の衆院選マニフェストで来年度から2万6千円の支給を公約していた。しかし、ここにきて長妻昭厚生労働相と菅直人首相が、財源確保の難しさを理由に満額支給断念の考えを相次いで明らかにした。


 賛成意見は男女や支持政党の違いを問わず圧倒的に多い。「マニフェストの政策は必ず実現すべきか」という別の質問でも「柔軟に見直してよい」が77%だった。
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 マニフェストの実現に対して、柔軟に見直して良いという国民世論が77%であるという報道だ。これを根拠にしてかどうかは知らないが、自民党や公明党の野党は、「柔軟に対応しろ」と言って、民主党のマニフェスト実現に反対している。
 これも私からすればおかしな話である。
 政策に対する賛否とマニフェストという「国民との契約」に対する忠誠心は別物だと言うことがわかっていない。
 上記の世論調査は、子ども手当ての満額支給に反対するという世論とマニフェストの絶対性を混同して回答しているとしか思えない。


 私の常識からすれば、私自身の考え方も同じだが、子ども手当ての満額支給に多くの国民が反対するのは構わない。しかし、自分の考え方と違うとしても、このマニフェストを掲げて政権を奪取した民主党は、死ぬ気でマニフェスト実現に向けて全力を尽くさなければならない。
 スーパーコンピューターの開発を巡って、蓮舫参議院議員の有名な言葉がある。
「世界一になる理由は何があるんでしょうか。2位じゃダメなんでしょうか」
 つまりマニフェストに応用して言い換えれば、以下のようになる。
「マニフェストの100%実現にこだわる理由は何があるんでしょうか。50%の実現ではダメなんでしょうか」
 こうなるのだ。
 スーパーコンピューターの開発がそうであるように、世界一をめざして、結果として2位とか3位とかになることはある。しかし、世界一をめざさなくて2位も3位もない。
 同様に、マニフェストも100%実現をめざすからこそ、結果として50%実現や20%実現になるのであって、最初から「柔軟に」などと言っているようでは、マニフェストの実現などは到底できない。
 民主党政権与党は、全力でマニフェスト100%実現をめざさなければならない。野党は自分たちの意に反したマニフェストに対しては、反対しなければならない。ただし、選挙によって有権者が現政権与党のマニフェストを支持したと推論すれば、それに対しては一定の敬意があっていい。与野党せめぎ合いの中でこそ、最終的な落とし所が決まってくるのであって、政権与党自らが、またはその政権党に権力を与える元泉となった国民自らが、マニフェストの実現は「柔軟に」などというものならば、「選挙での約束はいい加減で良い」と自ら言っているようなものだ。
 選挙を神聖視する私としては、とても耐えられない有権者による「自虐的な妥協」と言わざるを得ない。
 もちろん個々の政策に関する賛否はそれぞれあっていい。
 しかし、衆院選挙で民主党が勝った以上、子ども手当てを例にして言えば、満額支給に反対するであろう72%の意志を押し切ってでも、満額支給を求める21%のために、マニフェスト実現に向けて全力を傾けなければならない。

 一見矛盾するようなことを言うが、大多数の支持を受けて政権を奪取した民主党は、選挙中に公言した「該当者が少数である約束(この場合、子どもがいるような家庭が該当する)」であっても、それを実現しなければならないということだ。たとえ大多数の国民の反対を押し切ってもである。
 民主主義とは、一人一人を大切にしてこその民主主義でもある。常に多数意見に流されていては、一人一人を大切に扱うなどと言うことは決してできない。


 何度も言うように、私自身は当事者でもないし、財政的な事も考えて、子ども手当ての満額支給には反対の立場だ。
 しかし、一方で私は高速道路の無料化論者でもある。これまた子ども手当て同様に、国民世論の大多数からは非常に評判が悪い政策である。それでも、高速道路の無料化を掲げて選挙戦を戦い、政権政党となった民主党には、死ぬ気で高速道路の無料化を実現していただきたい。それこそが「国民との真摯な契約」なのであり、それをマニフェストと呼んで、広く国民に対して訴えたのだろう。その約束を反故にすることは許されない。
 この様な思いがあるからこそ、政策的には反対ではあるが、子ども手当ての満額支給を求める21%という少数世論の気持ちはよくわかる。子ども手当てを信じて民主党に期待したのに、なぜ満額支給されないのか、そのなし崩し的な「公約不履行」に対して、憤っている少数世論は絶対にいるはずだ。その気持ちが、私にはよくわかるのだ。


 政策的な思いは違えども、政権与党のマニフェストに対して「柔軟に対応を」と迫る野党には腹が立つし、それを支持するような多数世論に対しても腹が立つのである。
 それは当然の憤りだ。個人対個人の契約がそうであるように、政党と個人の契約もまた、簡単に反故にできる内容ではない。子ども手当てのように、高速道路の無料化のように、「対象者少数の政策」だとしても、契約は契約である。これこそプリンシプルとしての考え方だ。どんなに多数の反対者がいたとしても、マニフェストを神聖に考え、それを現実化させるべく汗をかくのが政権与党の仕事なのだ。


 プリンシプルとはそう言うものだ。マニフェストとは、民主党にとってプリンシプルでは無かったのか。そんなに簡単に、柔軟に、修正して良いモノなのだろうか。
 「金科玉条だ」という批判に対しても日和るようでは全くダメだ。
 もしマニフェストを修正できるとするならば、それは選挙のみである。その手続きを経ずして、マニフェストは変更できない。次の選挙で真摯に修正案を国民に提示し、それで選挙を戦って、国民の承認を得て、その後対応すればいい。何も「金科玉条」という批判に対して日和ることもないし、実際に金科玉条である必要も無い。ただそれは国会の議論を通じて行うべき修正ではなく、選挙でのみ行える神聖な行為なのである。それ以外で柔軟に対応などしてはいけない。それがマニフェストだ。


 そもそもマニフェストは、民主党が最初に言い出した概念である。だからこそ、選挙に勝利した民主党に対して、野党各党が「柔軟に」などと言って、マニフェストを骨抜きにしようとする戦術は党利党略としてわからないでもない。
 しかし、そのようなことを言い出す政党は、目先の党利党略に走るばかり、大事なことを忘れている。
 「マニフェストとは、政権交代が実現したら、その場その場で柔軟に対応し、別に守らなくてもいい約束なんですよ」
 そう、国民に対して堂々と言いはなっていることを忘れている。
 つまり、この様な野党が言うマニフェストは、決して信用してはならない。


 党利党略に走り、目先の利益追求のために動く政党や政治家は、とても信用に値しない。与党と野党の立場が変わったときに、たとえ自分たちにとって不利になったとしても、自分の信念を貫いて言えるモノだけが、プリンシプルを持つことができるのだ。
 マニフェストをおろそかにするような政党や政治家には、天罰が下ることを心から望む。


 ちなみに外国人地方参政権については、たとえ民主党が政権政党になったからと言っても、これを野党は全力で潰して構わない。なぜならば、マニフェストには謳ってないから。マニフェストに書いてあることならば、それは国民の信託を受けたと言うことで、たとえ自分たちの考え方とは違うとしても、一定の敬意を持って扱う政策とすべきだが、マニフェストに書いてない政策については、たとえ政権政党の主張だとしても、自分たちの意に沿わなければ、全力で潰しても構わない。それに政権与党も、選挙でそれを訴えてこなかった以上、反対多数ならば、その政策をごり押ししてはならない。マニフェストにおける該当者少数の政策実現とは根本的に異なるのだ。


 よって、民主党の政策に反対する野党の心得として、「子ども手当てと高速道路の無料化のようなマニフェストの目玉政策と、外国人地方参政権のように選挙には隠して言わなかった政策への対応については、当然ながら雲泥の差をもって望むべきだ」と、私は訴えるのである。
 堅物と言われようが、融通が利かないと言われようが、プリンシプルに従って行動するとは、こういうことである。


 ほぼこれに近い話を、10月16日(土)の朝の集会で、私は参加者一堂に対して話をした。


2010年10月18日