sengoku38は英雄になる
英雄とは私利だけに走らず、死をも覚悟して、公利のために現場で働く人のことを言う。往々にして単独でも行動する。
私の独断と偏見による英雄の定義からすれば、どんなに素晴らしい活躍をしても、スポーツ選手や芸能人などは、この定義からは外れる。また最高権力者は、どんなに英雄的な活躍をしても、命令体系の長であることから、あまり英雄というイメージには合致しにくい。
やはり、それほど大きな権力を持たずに、自分の限られた権限の中で、自分の不利益も考えず、良心と信念に基づいて動いた人をイメージする。
私が思うところの実在した英雄像に合致する日本人について、ウィキペディアを引用して、原則実名をもって紹介する。
佐倉惣五郎
佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、慶長10年(1605年)? - 承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期における下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主。姓は木内氏、俗称は宗吾。 江戸時代公津村は佐倉藩領で、惣五郎は藩主堀田氏による苛政を藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかったことから、1653年(承応2年)上野寛永寺に参詣する将軍徳川家綱に直訴した。その結果、藩主の苛政は収められたが、惣五郎夫妻は磔となる一方、男子も死罪となってしまった。その後、惣五郎は堀田氏に祟るようになり、堀田氏は改易となったという。
大塩平八郎
大塩 平八郎(おおしお へいはちろう、寛政5年1月22日(1793年3月4日) - 天保8年3月27日(1837年5月1日))は、江戸時代後期の儒学者で、大坂町奉行所の与力。大塩平八郎の乱を起こした。
天保の大飢饉の際、幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価つり上げを狙った米の買い占めによって、大坂の民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛め、当時の東町奉行跡部良弼に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや豪商に買い占めを止めさせることを要請した。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけた。善右衛門が跡部に相談した結果「断れ」と命令されたため、これも実現しなかった。
その後は蔵書を処分するなどして、私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと考え、門人に砲術を中心とする軍事訓練を行った後、1837年に門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。しかし、門人の密告(奉行所が送り込んだスパイという説もある)によって奉行所の知るところとなったこともあって、すぐ鎮圧された。逃亡生活中、四ツ橋のあたりで刀を捨て、靱のとある商家の蔵に隠れていたが、数ヶ月ほどの後、所在が発覚し(その理由のうち有名なものの一つとして、いつも2人分の食事が日に1度必ず余分にあるのを不審に思った商家の女中が奉行所に密告したという説がある)、養子の格之助と共に火薬を用いて自決した。享年45。
田中正造
田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 大正2年(1913年)9月4日)は、日本の政治家。足尾銅山鉱毒事件を告発した。衆議院議員選挙に当選6回。幼名、兼三郎。
明治34年(1901年)10月、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動はやめず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。
明治天皇に直訴を行う様子が刻まれている「田中正造翁遺徳の碑」
(茨城県古河市) 古河は谷中村=現渡良瀬遊水池周辺最大の都市で支援者も多く、また田中らが上京時に古河駅を利用したことから現在まで縁の多い地の1つである12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っているが、カツ本人は離縁されてはいないと主張している。
杉原千畝
杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は日本の官僚、外交官。
第二次世界大戦の際、リトアニアの在カウナス領事館に赴任していた杉原は、ユダヤ人難民が亡命できるよう大量のビザ(Transit visa.通過査証、通過ビザとも)を発給。外務省の命令に反するこの行為により、ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られる。
熊本典道
熊本 典道(くまもと のりみち、1938年 - )は、日本の元裁判官、元弁護士。
2007年に突如袴田事件の支援者に合議の秘密を破り「事件は無罪であるとの確証を得ていたが裁判長の反対で死刑判決を書かざるを得なかった」という手紙を書きその後改めて記者会見を開き同様の趣旨の発言をした。
sengoku38(仮名)
・2010年11月4日 - YouTube上に「sengoku38」なる登録名の人物が登録され、同日21時前後から6分割された計44分に及ぶ映像がアップロードされた。
・2010年11月5日 - 投稿された動画は午前7時40分ごろに投稿者がアカウントごと削除し、視聴不可能になった。
しかし、削除前に視聴した利用者が保存した動画データが、YouTubeやニコニコ動画等の各種動画共有サービスへの転載や内容をDVDに記録され配布されるなど、現在でも視聴可能な状態にあり情報が拡散している。
・2010年11月8日 - 海上保安庁は被疑者を特定しないまま国家公務員法守秘義務違反、不正アクセス禁止法違反、窃盗、横領の疑いで警視庁と東京地方検察庁に告発した。
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今回、紹介した人たちは、誰もが時の権力に逆らって、独断または指導的な立場で、権力の意に反した行動をした人たちである。
佐倉騒五郎は将軍に直訴して、本人、妻、息子が死罪となった。
田中正造は天皇に直訴して失敗した。本人は死を覚悟しており、災いが広がらぬように、事前に妻へ離縁状を送っている。
杉原千畝は外務省の方針に反し、人道的見地からユダヤ人に対してヴィザを発給した。その後、外務省を辞めている。
sengoku38は、それが誰かわかったところで、きっと民主党菅内閣より、厳罰を受けることが必至である。
いままでの英雄は同時代では評価されなかった。本人は死をも覚悟して、当時の権力者に盾突くわけだから、同時代においては罪人のそしりを受けることも、止む得ないだろう。しかし、本当にそれで良いのだろうかという疑問は残る。
今回のsengoku38による尖閣ビデオ公開事件は、正に同時代を生きている我々が生で体験した事件である。過去の英雄達は、当時は極悪人として命を落としたり、職を追われたりもしたが、今では誰もが、高く評価されている人たちである。
では、sengoku38についてはどうだろうか。
何が罪で、何が徳か、根本に立ち返って考える必要がある。
尖閣ビデオは、本来ならば、もっと早い段階で、国民に広く知らせるべき情報であった。それを民主党政権は、非公開として、国民の目から遠ざけてしまった。
この様に事実を隠蔽しようとした民主党政権の悪行を、この国の主権者である国民に直訴する行為が、sengoku38による動画サイトにおける投稿である。
これは、やむにやまれぬ良心と信念に基づいた義勇である。
私の意見では、本来公開すべき尖閣ビデオの情報を隠してしまった民主党政権に“罪”がある。公開すべき尖閣ビデオの情報を、民主党政権に成り代わって公開したsengoku38には“徳”がある。
よって、犯人は民主党政権、とりわけ仙石由人官房長官である。反対に英雄は自らの不利益も省みず、国民に情報を公開したsengoku38となる。
しかし、残念ながら政権政党を罰する者はいない。逆に政権政党から見れば、自らの評判を落とした英雄こそが、犯人に見える。
今ここで、主権者たる国民こそが、sengoku38を擁護しなくて、誰がこの正義を評価できるのであろうか。
もしsengoku38が犯人だと思う人がいるならば、
その人は、佐倉惣五郎をどう評価するのか。
大塩平八郎をどう評価するのか。
田中正造をどう評価するのか。
杉原千畝をどう評価するのか。
熊本典道をどう評価するのか。
是非、聞いてみたいものである。
「やるときはたった一人でもやる」
この信念と行動力に共感し、少なくとも私はsengoku38をこのまま見殺しにはできない。
2010年11月10日