あまりにも情緒的な「自衛隊は暴力装置」批判と謝罪にガッカリ
仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 参院予算委で発言、撤回
2010年11月18日11時33分 asahi.comより
仙谷由人官房長官は18日の参院予算委員会で、「自衛隊は暴力装置」と述べた。その後、「実力組織」と言い換えた上で、発言を撤回し、謝罪した。
「暴力装置」の表現は、かつて自衛隊を違憲と批判する立場から使用されてきた経緯がある。
この発言は、世耕弘成氏(自民)の質問に対する答弁で飛び出した。世耕氏は、防衛省が政治的な発言をする団体に防衛省や自衛隊がかかわる行事への参加を控えてもらうよう指示する通達を出したことを問題視し、国家公務員と自衛隊員の違いを質問。仙谷氏が「暴力装置でもある自衛隊は特段の政治的な中立性が確保されなければならない」と語った。
世耕氏は仙谷氏に対し、発言の撤回と謝罪を要求。仙谷氏は「用語として不適当だった。自衛隊のみなさんには謝罪致します」と述べた。
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今の民主党が失政続きのダメ政党であり、体力が弱っているからと言っても、正誤の判断は正しくありたい。自分がどの政治勢力に荷担していようとも、「正しいことは正しい」といい、「間違っていることは間違っている」と言わなければならない。どんなに自分が不利な状況にあっても、自分の正当性をしっかりと主張できなくて何が政治家なのだろうか。
少なくとも「自衛隊は暴力装置」という仙石由人官房長官の見解は正しい。正しいことを正しいと言って、何が悪いのか。認識の違いなどではなく、「自衛隊は暴力装置」は、“常識”だ。本来、見解の相違などで対立するような話では無い。
自民党の世耕弘成氏は、「自衛隊は暴力装置」ではないと思っておられるようだが、それらなば、自衛隊は何だというのだろうか。暴力装置でないとしたら、自衛隊に何の価値があるというのだろうか。この様に間違った認識で、相手をやり込めて、得意顔になっているような人物がいるとしたら、それこそ単なる“大バカ”だ。
私も含めて、いくら毎日のように、仙石由人官房長官を批判しているからと言って、批判のための批判などしてはないならい。
仙石由人官房長官にあたっては、間違っていることは間違っていると毅然とした対応で、世耕弘成氏の無知を正してあげないといけない。自分の立場が上とか下とか、有利とか不利とか、全く関係ない。
天下の官房長官でさえ、このような体たらくである。
人とは、自分が弱い立場に立たされたとき、「正しいことは正しい」、「間違っていることは間違っている」、「やったことはやった」、「やっていないことはやっていない」と言い切れない人間がどれだけ“いないのか”、その証明でもある。
ほとんどの人は信念などでは動いていない。その場の逆風が、どうしたら収まるのか、そのためにはどのように自分が発言したらよいのか、その一時しのぎの「快と不快」の判断によって動いていることが、どれだけ多いことか。
無実の罪で警察に捕まって、「それでも私はやっていない」などとは、通常言い切れないのだ。
「犯人でなければ、『私はやっていない』とどんな状況でも言い切れるだろう」などと軽口をたたける人は、よほど幸せな人生を送ってきたか、世間知らずで想像力の欠如した人物に違いない。司法試験に合格して、頭が良いはずの裁判官の中にも、“自白”とはこの程度の認識しか持たない人がいるのだから、ガッカリする。
人は、心にもないような言葉を発することがある。いや“言わされてしまう”ことがある。そのような人間理解をしていない人物に、裁判官や政治家などして欲しくない。
人は自分が不利な状況に追い込まれたとき、自分を責め続ける相手を納得させるために、自分の本心とは違ったことを言う。その行為は、嘘という積極的に相手を騙そうという試みではない。むしろ、相手からの攻撃を止めて欲しいと懇願する自己防衛本能が、消極的ながら本心を偽って、心にもない“攻撃相手が納得すること”を言ってしまう。
この様な人間理解とは、それと同じ状況を実体験したり、体験談や小説やドラマなどで追体験でもしていなければわからない。想像を絶する拷問に対して、「それでも私はやっていない」などと言えるような人は、一部の狂信的信仰心を持ったような人でない限り、まず実在しない。
http://www.t-ken.jp/diary/20100123
ここにも同種のことを書いたが、もう一度ここに書く。
読者自身が、被疑者になったつもりで読んで欲しい。
自分が魔女だと白状した途端に殺されるような取り調べにおいて。
取調官「あなたは魔女ですか」
被疑者「違います」
熱湯が入った釜の上で体を縄で吊された被疑者は、ゆっくりと熱湯の中に降ろされる。
被疑者「熱い」
熱湯が少しだけ足の裏に触れる。そして、すぐに引き上げられる。
取調官「もう一度聞きます。あなたは魔女ですか」
被疑者「違います」
吊された被疑者は、再び熱湯の中に体を沈められ、足首まで熱湯に浸かる。
被疑者「熱い。熱い」
そして引き上げられる。
取調官「もう一度聞きます。あなたは魔女ですか」
被疑者「違います」
被疑者は更に熱湯の中に体を沈められ、ヒザまで熱湯に浸かる。
被疑者「熱い。熱い。熱い」
そして上げられる。
取調官「最後にもう一度だけ聞きます。あなたは魔女ですか」
被疑者「違います」
被疑者は更に熱湯の中に体を沈められ、下半身全体が熱湯に浸かる。
被疑者「熱い。熱い。熱い。熱い」
取調官「こんなに苦痛を与えても、『自分は魔女ではない』などと、言い切れる人間はいない。普通の人間にはできないことができるということは、やはりおまえは魔女だ」
このように被疑者は、一方的に魔女だと断定された。吊されていた縄は切られ、被疑者の体全体が熱湯の中に沈められてしまった。
史実の有無はともかく、ガリレオ・ガリレイによる「それでも地球は回っている」との発言が、いかに困難な状況下でつぶやかれたのか。信念による発言とは、その者が絶対的に不利な状況でこそ、光り輝くのだ。平素に平和に暮らしていれば、そのような場面はまずない。信念など必要ない。だから、このガリレオ・ガリレイのこの有名な話は偉大なのだ。
自分の立場が弱くなったときこそ、信念なり、その人間が持つ根本の力が燦然と輝くのだが、これまで私がずっと批判してきた仙石由人官房長官が、この程度の芯のない人物だったとは、逆にガッカリだ。
少なくとも「自衛隊は暴力装置」発言に関しては、私は仙石由人官房長官を擁護する。
暴力に関するウィキペディアからの引用である。
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暴力は人間の尊厳や人権をおびやかすものであり、人道主義や平和主義の立場ではあらゆる対立は非暴力的な手段によって理性的に解決されるべきという社会の規範がしめされる。しかしながら、その規範が実施されるとはかぎらない。そのために暴力に対抗することが必要となる。
しかし、これは暴力と非暴力、善悪の対立ではありえない。暴力に実質的に対抗できるのは同等の暴力だけである[4]つまり、暴力を統制するためにはより強力な暴力、すなわち組織化された暴力(Organized violence)が社会の中で準備されなければならない。軍隊、警察がこれにあたり、社会学者のマックス・ウェーバーはこれらを権力の根本にある暴力装置と位置づけた。
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暴力と聞くと、「暴力=悪」のように考える人が多い。「暴力反対」というスローガンは、暴力が悪であるという前提で語られているスローガンである。
しかし、暴力は悪でもなければ善でもない。物事のある状態を表した言葉であって、そこに善とか悪とかを結びつけて考えるのは、それを見ている人間たちの価値判断である。
かつてアニメ“北斗の拳”や“ドラゴンボール”に対して、暴力的表現が多いので放送禁止をした外国を紹介する報道があった。子どもに対して、過度な暴力シーンを見せ続けることの良し悪しは、議論としてあるだろう。しかし、北斗の拳のケンシロウにしろ、ドラゴンボールの孫悟空にしろ、正義のために、いや人間のために暴力を使って、敵を追い払うのである。
この構図は、ウルトラマンも仮面ライダーも一緒だ。彼らが敵と戦うときに使うのは、非暴力の言論なのか。それともお金でも払って、「穏便に帰ってください」とでも言うのだろうか。違うだろう。対抗手段は、暴力そのものではないか。
黒澤明の名作「七人の侍」にあっても、盗賊と戦うために百姓は、暴力集団である七人の侍を雇って、盗賊に対抗したのである。
暴力に対して、暴力以外の何を持ってして、敵と対峙するのであろうか。自衛隊、警察、海保、どれもが暴力装置である。
私はこのニュースを聞いた途端に、天皇機関説事件を思い出した。(ウィキペディアを参考)
天皇機関説事件とは、1935年、貴族院本会議の演説において、菊池武夫議員が美濃部達吉議員が唱える天皇機関説を批判したことに始まる。
「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」
この程度の認識で、美濃部達吉議員を批判した右翼が多かった。天皇を神聖視する時代下にあって、学問に対する無知と天皇に対する情緒的怒りが、学説を根本から変えてしまった。
美濃部達吉議員は、国会で謝罪もし、議員辞職もしたが、結局、右翼暴漢に銃撃され重症を負った。
自衛隊も警察も海保も、それぞれ重要な役割を持った、尊敬すべき国の組織ではあるが、暴力装置は暴力装置である。仮に私がひよってこの主張を変えたとしても、この事実は、1ミリたりとも揺るぎはしない。
世耕弘成議員が無知蒙昧だとは思わないが、この件に関しては、多分“戦略的無知”を演じているのだろう。民主党に対峙しているから言うのではない。仙石由人官房長官に対峙しているから言うのではない。こんないい加減な説が流布されて、学問として考えたときに、恥ずかしくないのかということだ。
「自衛隊は暴力装置」ではないとするならば、世耕弘成議員の主張は、マックス・ウェーバー先生の主張に対峙しているのである。それを氏はどのように考えるのだろうか。
無知と情緒的怒りに翻弄された衆議院の先生方の“珍説”に、私はとてもついて行けない。
2010年11月20日