南アでは、強姦を不当に賛美したマンガやアニメがあるのか
3人に1人レイプ認める 南ア男性、性暴力が蔓延
2010.11.27 17:05 産経ニュースより
このニュースのトピックス:中東・アフリカ
南アフリカの最大都市ヨハネスブルクや首都プレトリアがあるハウテン州で、男性の3人に1人を上回る37・4%が過去に女性をレイプした経験があるとの調査結果を、政府系の研究機関「医学研究評議会」(MRC)が26日、発表した。複数のメディアが伝えた。
今年サッカーのワールドカップ(W杯)を無事終了し、2020年にアフリカ初の夏季五輪開催を目指す南アだが、性暴力が蔓延(まんえん)している実態が浮き彫りになった。
調査は同州の男性487人、女性511人に実施。人口比率に基づき、調査対象者は黒人9割、白人1割とした。女性は25・3%がレイプされたことがあると回答、男性の7%が集団レイプの経験があると答えた。男性の78%が女性に対して何らかの暴力を振るった経験があり、女性は半数以上が暴力を受けたことがあると回答した。(共同)
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都青少年健全育成条例が可決された。強姦や児童買春を不当に賛美して描く図書類は良くないとの為政者による判断だ。
「現実とフィクションは違う」
これは現代の常識だ。もし現実とフィクションが連動しているなどと考えたら、およそ人間にとっての大罪である殺人を扱った物語など、世に発表することなどできはしまい。世の中はそれを模倣した殺人事件だらけになってしまうが、現実はそうはならない。現実とフィクションは違う。この前提があってこそ、ありとあらゆる物語は成立する。
しかし、都青少年健全育成条例に賛成した人たちは、この常識が一番分かってないのではないか。あたかも強姦や児童買春を不当に賛美した図書類を読むと、そのようなことを現実に行いたくなる者も出てくるので、規制しようという発想をしていないだろうか。
なぜマンガやアニメが規制対象になったかと言えば、このような文化に触れるのは子どもたちであって、いい大人がマンガやアニメを見るはずがないという、暗黙の前提があるような気がしてならない。
それに強姦や児童買春を描いた図書があることが良くないならば、強姦や児童買春を扱った映像はどうなるのか。マンガやアニメのような創作物は処罰の対象にしておきながら、仮に本人が同意したとしても、演じる役者が実際に“被害者”となる、強姦や児童買春ならば免罪されるのか。
またフィクションとしての強姦や児童買春を見た者がそれに影響を受けて、現実に強姦や児童買春が行われるという関係を想像するのは、あまりにも短絡的だ。少なくとも私が千葉大学時代に、加藤尚武先生に習ったときは、この原因と結果の関係は簡単に倒置して考えることができるという教えを受けた。
つまり、現実に強姦や児童買春が行われるという原因があるから、その結果、強姦や児童買春を描いた図書が誕生するという考え方だ。
鶏が先か卵が先かのような議論であり、世の中に強姦や児童買春を扱った作品を全て無くしてしまえば、実際の世の中から、強姦も児童買春も無くなるのかという問題なのだ。結論から言えば、無くなりはしないだろう。
また現象についても全く逆の評価を持って考えられることができる。強姦や児童買春を描いた図書があるから、読者はその代替行為によって内なる願望を満たしてしまい、現実には強姦や児童買春が行われないと言う考え方だ。
私は都青少年健全育成条例に賛成した人たちは、SMのサドの語源にもなった、マルキ・ド・サドの文学についてどのように考えているのか、是非聞いてみたい。
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サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。
(Wikipediaからの引用)
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サドの作品の中では、まさに個人の“趣味”や性癖のため、女性の四肢を切り刻むような快楽殺人の様子が書いてある。猟奇殺人だけでなく、肛門性交も含めたおよそ淫蕩としか表現できない異常性欲を扱った場面も数多く存在する。
暴力と性行為が融合した形で、女性が襲われる場面などは、ほとんどの女性が目を背けたくなる描写だろう。彼女たちにとっては、とんでもない作品だと思うに違いない。
しかし、そのようなサド文学は、現代において高い評価が与えられている。この現実を都条例に賛成した人たちはどのように解釈するというのだろうか。まさか、多くの専門家が高く評価する文学作品を、一介の素人が、自分の性癖や趣向にあわないからと言って、駄作と断定するような愚行は行わないと思うのだが、いかがだろうか。
性と暴力の表現については、やはり人類史に基づき、歴史的考察をして考えることを多いに薦めたい。その古典として、マルキ・ド・サド文学は、最も適当な教材となり得るだろう。
マルキ・ド・サド個人に関しては、フィクションである文学の中で、どんなに猟奇殺人を行い、異常性欲を発散させたとしても、彼個人が殺人事件を犯したという記録はない。つまり、彼個人に関して言えば、作品の発表こそが、現実にはそれを行わないための代替行為だったのかもしれないとも言える。
人を殺したいと思ったとき、その思いは犯罪か。
今の刑法は、思っただけでは犯罪にならない。当たり前の話だ。殺したいと思っただけでは犯罪にならない。誰かを殺して、または実際に何かして殺そうとしたときになって初めて犯罪要件が成立する。
強姦も同じ事だ。誰かを犯したいと思っただけでは犯罪にならない。誰かを犯そうとして、または犯してしまって犯罪になる。これも当然のことだろう。
思うだけでは罪にならないのが、この日本社会における常識である。暴力や異常性欲を、何かの作品として発表しただけでは罪にはならない。
それでも殺人にしろ、性行為にしろ、その過激な表現を子どもたちに見せたくないという親の気持ちは分からないでもない。その“子どもには見せない”と言うことに関して、反対する人はきっといないのではないだろうか。
私もそれには賛成する。しかし、それは現行法においても対応できることであり、何も新法を作ってまで対応しなければならないことではない。作品を販売したり、放送したりする過程において、不用意に子どもたちの目に触れないような対応を厳密に行えば良いだけの話である。
しかし、以下のような反論が聞こえてきそうである。
>どんなに厳密に販売や放送を規制しても、作品自体が存在すれば、色々な方法を使って、子どもたちがそれを入手し、本来は見てはいけない表現が子どもたちに見られてしまう可能性がある。だからこそ作品自体を抹殺しなければならない。
その通り。「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」に登場する、主人公の妹である高坂桐乃(こうさかきりの)のように、中学2年生でありながら、好んで18歳未満には禁止されているアダルトゲームを好んでプレイするような女の子が現実にいるかもしれない。
ただし、彼女の場合はうっかりそれを目にしてしまったという類ではなく、積極的にアダルトゲームを買い求めていることからも確信犯であることが認められる。こうなってしまえば、どんな大人の浅知恵も彼女の欲求を止めることはできない。ありとあらゆる方法を使って、アダルト作品を入手し、それをみたいと思うようになるだろう。
もし、それでも、どうしても、子どもたちにアダルト作品を見せたくないというのならば、まさに18歳未満がアダルト作品を目にすることを犯罪行為と見なし、そんな子どもたちを逮捕し、牢屋の中に止めておくことが、唯一無二の防止策とはいえないだろうか。犯罪を未然に防止したいのならば、全ての子どもたちを牢屋に留め置いて、外界との接触を一切断たせることで、無菌状態よろしく、純粋培養することが一番安全ではないかと、皮肉を言いたくもなる。
都青少年健全育成条例が成立する過程では、子どもを持つ父母の賛成があったと言われる。アダルト作品と、自分たちの子どもたちとの接触を必要以上に恐れ、なおかつご両親自身の指導監督責任によって、それが難しいというならば、警察権力により、そのような子どもたちは片っ端から逮捕、勾留するという方法だってあるのだ。
アダルト作品を作ったり流通させたりしている者を処罰するのではなく、それを見てしまった子どもたちも処罰の対象にすることが、“見せない”という本来の目的をより実体的に遂行できるという議論が当然あってもいい。
もちろん、私は背理法を使って、わかりやすく説明しているつもりであって、子どもたちを逮捕しろとは本意ではない。しかし、都青少年健全育成条例を推進する側の本意は、子どもたちの逮捕、勾留まで行ってこそ徹底されるのではないかということだ。
日本は世界的に見ても犯罪発生率が少ない国家である。当然ながら性犯罪も少ない。この現実に満足せず、“犯罪をゼロにする”という大義名分を元に、ありとあらゆる可能性を想定し、“権力側にとって望ましからざる作品”を不当に取り締まることは、超管理社会を作る側にとっては好都合である。
3人に1人はレイプしたことがあるという南アの男性たちの中で、どれだけの人が、日本のマンガやアニメによる、「強姦や児童買春を不当に賛美して描く図書類」に影響を受けて、犯罪を行ったのか、一度アンケートでも取って調べてみると良い。
2010年12月16日