田中けんWeb事務所

江戸川区議会議員を5期18年経験
巨大既存権益組織に斬り込みます!

t_ken

日刊田中けん

飛行機が飛ばない。さてどうするか。

 その日の予定は、能登空港から羽田に戻って、19時の忘年会に出席することだった。しかし、朝から降り続いた雪の影響で、飛行機の出発は延びていた。私が本来乗るべき飛行機は、11時40分発のANA便である。この時間に間に合うように、私は既に11時前から空港について出発の準備をしていた。
 まず伝えられたアナウンスは、当機がまだ羽田を飛び立っていないということだった。これで出発が遅れることは確定した。羽田から飛び立った飛行機が能登空港に到着して、その機体が羽田に戻って1往復するのだから、飛行機が羽田から飛んで来なければ話にならない。
 11時17分に当機が羽田を出発したとのアナウンスがあった。出発したのだから、能登空港に来るのは当然だろうと思うのだが、アナウンスによると着陸できるかどうかは別問題とのことだった。能登空港に着陸できない場合は、小松空港に振り替え着陸するか、または羽田まで引き返す可能性もあると告げられた。とにかく羽田から飛行機が飛び立ったのは事実である。待つしかなかった。
 12時に新たなる情報提供があるとのアナウンスがあった。12時になる頃、事態についてハッキリするのが12時20分に変更とのことだった。
 12時27分に当機が能登空港に着陸したとのアナウンスがあった。乗客が次々と降りてきた。これで飛行機が能登空港から出発する可能性は高まった。
 実際に機内へと搭乗開始がアナウンスされたのが、12時55分だった。この時点で、出発するのではないかという私の期待は確信に変わっていた。19時の忘年会に間に合うという安堵の気持ちで飛行機に乗り込んだ。
 客の大半が乗り込むのに20分とかからなかった。そろそろ出発するだろうと思っていた13時15分頃になっても、まだ機体は動かなかった。動かないどころか、ハッチが閉まっていなかった。これでは飛べない。まだまだ出発するのに時間がかかると思い、私は客室乗務員に話をして、機外に出て携帯電話をすることの許可を求めて認められた。少々長電話をして、機内に戻って、静かに出発を待った。
 最終的に、飛行機が飛ばないとの判断が示されたのが14時50分だった。その判断が示されたと同時に、振替バスの案内が開始された。
 一度、搭乗した飛行機であったが、飛び立たずに降りたのは、多分、これが初めての経験だ。すぐに私はカウンターに駆け込んだ。この後の対応について説明を求めた。
 色々な選択肢が私の頭の中を駆け巡った。小松空港へ行く。それもレンタカーを借りて。JRを使う。飛行機を使わずに東京に帰る。小松空港でANAは振替便を出すと言うが、総合的に判断して、私はそれをキャンセルした。
 小松空港までの振り替えバス1号車が発車したのが、15時55分だった。とにかく小松空港まで行ってみよう。小松空港に到着したのが、17時50分頃だった。
 小松空港発羽田空港行きの便は、17時5分に出発予定となっている。よって、既にこの便には間に合わない。次の出発予定時刻は、20時5分である。これでは、遅すぎて忘年会には間に合わない。
 そこで私はJALの時刻表を調べてみた。すると、JALの場合は、19時15分に出発する便があるという。私はANAを捨て、JALに乗り換えることにした。
 19時15分発の予定ではあったが、上空に積乱雲が発生しているため、安全のため出発は延長された。その時、20時5分発のANA便は、小松空港上空まで来ていたが、降りるに降りられず、上空を旋回して待機していた。どちらにせよ、積乱雲のため、更に出発時間が遅れた。
 JAL便が出発したのは、19時43分である。本来の羽田到着予定時刻は20時20分なのだが、実際は20時51分となった。
 JAL便が羽田に到着して、私は一目散に羽田空港を出て、モノレールとJRを乗り継いで、忘年会会場である新小岩駅に向かった。
 私が忘年会会場に到着したのは、21時55分。19時集合の忘年会で、3時間も遅刻しての登場となってしまった。
 23時まで忘年会は続き、メンバーとは親交を深め、解散した。


 長々と1日の行動を書いたが、私が言いたかったのは、この様な予想外の事態が発生した場合、私は何を決断すれば良かったのかと言うことだった。結果論にはなってしまうが、自分が判断した一つ一つの行動が、結果として、正しかったのか、それとも間違っていたのか。それを検証してみたくなったのだ。


 この日の私のミッションは、19時の忘年会に出席すると言うことだった。それならば、それを最大限実現させるための行動を、私自身はしていたのだろうか。そう考えると、私は3時間も遅刻してしまったのである。
 しかし、もしここで、あくまでも経済性にこだわり、ANAの振替便で東京に向かっていたら、更に1時間遅れて、忘年会には完全に間に合わなかった。
 つまり教訓的に言えることは、平時にあっては経済性重視の行動規範で構わないのだが、ここぞという突発的事象に遭遇した場合、経済性は度外視して考えなければいけないということだった。そのような非常時であっても、経済性優先の行動では、チャンスを失ってしまう。
 もし私にもっと早い決断力があれば、12時の時点で、能登空港からの出発を諦めても良かった。能登空港と小松空港の積雪状況などを比較、確認し、どんなに遅れても19時の忘年会には間に合うような対応が、その時点ならば可能だった。飛行機は不確実性が高いと判断すれば、時間はかかるが、JRで帰ることもできた。それも早く段階での決断が出来ればこそ可能になる結果だった。


 私には様々な選択肢があった。しかし、結局は何も動かず、無難な選択をしてしまった。動いたと言えば、最後の最後でANA機では無く、JAL機を使用したことで、現地に1時間早く到着できたことぐらいだった。


 ミッドウェー海戦時における山口多聞少将の名言を思い出した。
「ただちに攻撃隊の発進の要あり」
 当時の日本海軍は、敵が攻めてくる緊急時にあっても魚雷を外し、陸上用爆弾を装備させたり、また魚雷を装備させたりするように、より大きな効果を狙ってモタモタ行動していた。効果が多かろうが少なかろうが、まずは真っ先に戦闘機を発進させることが、その場では必要だと言う山口多聞少将は主張した。
 しかし、その進言も結局は、南雲忠一長官に却下されてしまった。飛行機が飛び立つ前の空母が無防備なように、結果としてモタモタしている間に、日本海軍は赤城、加賀、蒼龍という三隻の空母を失うことになってしまった。


 私も能登空港で、モタモタしている間に、貴重な時間を失ってしまったのだ。平時と戦時は違う。同様に、予期せぬ緊急事態が発生した場合、それに適切に対応する術とは、常時的な思考方法ではダメだ。
 私にはいくつもの選択肢があったにもかかわらず、3時間の大幅な遅刻という失態を演じてしまった。自分の決断力、判断力の乏しさを、今さらながら思い知らされるという悔しい結果になった。この失敗を、私は胸に刻み込み、同様な場面において、何を最優先に考え、どう動くことがよりよい結果をもたらす可能性が一番高いのかを、瞬時に判断し、行動できるような政治家になりたいと、今、思っている。


2010年12月30日