京大入試問題ネット投稿事件について
事件発生から、TVでは最近、連日この話題で持ちきりだ。その過熱報道を見るにつれ、うんざりする人は多いだろう。ただしあれだけ話題の事件である。私だけ無関心というわけにもいかないので、自分なりのコメントを掲載する。
多くの報道番組では、「カンニングが悪い」とか、「どのようにカンニングしたのか」など、通俗的な報道ばかりが目立った。カンニングは善悪を論じるまでもなく悪である。インターネットを使ったカンニングという意味では現代風ではあるが、単なる手段にしか過ぎず、犯行手口の詳細なる説明を聞いたところで、私の興味関心は、そこになかった。
むしろ、カンニングをした彼は、現代の入試制度のあり方に対して、逮捕されるというリスクを省みず、一石を投じたという意味で大きな事件だと言える。
これは私のオリジナル意見ではないが、どこかのTV番組で有識者が語っていたように、「知識量を問う」これまでの入試制度のスタイルが、既に時代遅れなのだ。このような根本的問題意識を持てば、これからの入試のあり方こそ議論の対象であり、いかにしてカンニングを防ぐかなど、些末な問題でしかない。
だいたい普段、私たちが仕事であれ、プライベートであれ、何かわからないことがあれば、辞書なりインターネットなりを活用すれば、だいたいのことがわかってしまう。何もそれは特別なことではなく、誰もが日常的に行っている普通のことだ。学生も主婦もビジネスマンも子どもたちだって、普通に平気で行っていることだ。
知りたい知識が簡単に手に入る現代にあって、何かを知っていると言うことに、どれだけの意味があるというのだろうか。“物知り”とは、賢人の代名詞のように使われるが、同じ賢人の中でも、“物知り”とは低級な能力に過ぎない。
私が考える賢人の等級は、「創造力>応用力>記憶力」であって、これこそが、記憶力=物知りを低級と考える根拠である。
何でも知っている人を賢いと言うのは、知識の合否を判断できる正解があるからに過ぎない。誰もが比較的簡単に合否を判断できる設問があるからこそ、対象者に対して、「賢い」とか「バカ」とか、正に賢くもなくバカでもない一般人が言っているだけのことだ。
創造力ある真なる賢人は、誰もその人が真に賢人かどうかを評価できない。評価できない賢人だからこそ、時に人は、そのような対象者をバカにしたりもする。後世になってから評価された悲劇の賢人は、正にそのような真なる賢人であったと言えよう。
抜群の記憶力を誇る、一般人でも理解できる凡庸なる賢人は、それが低級だからと言って、“意味なし”とは言わない。外国語など、調べればわかる言葉であっても、知識として自分自身の血肉になっていなければ、日常会話で使いこなすことはできない。即答性が求められる知識は、一々ネットや辞書で調べて使っていたのでは使い物にならない。
それでも、特定の状況、特定の分野以外の問題などは、即答性が求められなければ、ほとんどの答えが既にネットに載っている。知らないことはネットで調べればいい。辞書を調べればいい。本を調べればいい。
現代人の我々は、常にインターネットという無限大なハードディスクを身近に所有しているようなものだ。しかも、その無限大なハードデスクは、ほぼ全ての人が平等にアクセスできる、「みんなのハードディスク」、「みんなの頭脳」でもある。
試験会場という、隔離された特異な場所においては、個人の頭脳の中だけが勝負の鍵になる。それにどれだけの意味を見つけることができるのだろうか。庶民の一般生活の中にあるインターネットのような「みんなの頭脳」を前提にしてしまえば、誰もが記憶力の賢人と大差ない存在になれるのだ。
単純な知識の有無を問うことの優位性は、相対的に低くなったと言わざるを得ない。つまり、単純な正解だけを求めるような、知識量を問う設問は、既に現実社会では通用しない。
これからは、入試などの試験問題に関して、単純に知識を持って正解とする設問ではなく、知識を前提にして、その個人の整合性のある見解を求めるような設問こそ必要となってくる。その意味では、インターネットが既に試験会場にあって、インターネットを使っていかに的確に回答するかのような設問こそ、今風の設問形式になるであろう。
例えば、“魔法少女”“他者依存”“エントロピー”この3つの言葉をテーマ(文中に、必ずしもこの言葉を使えという意味では無い)にして、簡単な物語を1万字以内で書きなさい。とか。
人としてやってはいけないことは何ですか。その事象とその理由を述べなさい。ただし、通俗的に言われていることではなく、今まで誰もが考えも付かなかったような回答を、高評価とします。とか。
「考えさせる試験問題」を前提にすれば、その設問は、これまで以上に、設問者のセンスを反映するに違いない。それと同時に、採点者に対しても、採点者のセンスを問われる難解な採点となるであろう。
今までのように知識を問う設問ならば、試験をする側にとって苦労は少ない。“客観性”が、担保されていれば、その試験の合理性が保証されたのだ。
しかし、正解のない回答を評価しなければならないとなれば、それは設問者も採点者も、その力量を問われることになる。特に採点者によって採点が違ってくるなどのことも発生し、“客観性”は大いに崩れるであろう。
つまり、今までの試験問題とは、受験生のことを考えて行っていたのではなく、試験する側のやりやすさと怠慢と能力不足によって、惰性的に昔ながらのやり方が続けられてきたに過ぎない。真に優秀な学生を選抜したいなどと言う熱意はそこにない。
今考えるべきは、カンニングの再発防止策などではなく、いかに新しい入試制度を考え、それに則した設問と採点ができるようになるのか、正に“試験する側の問題”として理解するのが正しい。
今回の京都大学入試問題ネット投稿事件は、そのような意味で、入学試験における設問のあり方、それに続く採点のあり方を根本的に考え直させるきっかけを作った記念すべき事件であったと言える。
前途有望な若者の逮捕が、何か社会の役に立てば、この様な文章を書いた私としては幸いである。
2011年03月08日