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日刊田中けん

アニメにおけるハーレム設定について

Wikipediaを参考に、ハーレム設定の特徴を定義づける。


登場人物:主人公の男性キャラクター1人(あるいは少数)&多数の女性キャラクター
恋愛感情:主要なる複数の女性キャラクターは主人公の男性キャラクターが好き。男性キャラクターは自分を好きになる全ての女性キャラクターに対して、恋愛感情の自覚なく、比較的平等に接する。


 それでは私が知る限りにおいて、2011年3月9日現在で放送中の作品で「ハーレム」が展開されているアニメを、以下列挙する。


STAR DRIVER 輝きのタクト
これはゾンビですか?
ドラゴンクライシス!
(君に届け)
(銀魂)
IS 〈インフィニット・ストラトス〉
とある魔術の禁書目録Ⅱ
お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!


2010年のハーレムアニメを、以下列挙する。


あそびにいくヨ!
アマガミSS
いちばんうしろの大魔王
おまもりひまり
学園黙示録 ハイスクールオブザデッド
神のみぞ知るセカイ
Kiss×sis
(海月姫)
聖痕のクェイサー
生徒会役員共
セキレイ
そらのおとしもの
百花繚乱 SAMURAI GIRLS
迷い猫オーバーラン!
もっとTo LOVEる-とらぶる-
ヨスガノソラ


 列挙した作品の中で、アニメ正史では、ハーレム展開とは認めていないだろう「君に届け」「銀魂」「海月姫」について簡単に触れておく。
 「君に届け」の場合、風早翔太がハーレムの中心に位置するが、彼は主人公ではない。男性を主人公にした場合のヒロインとしての立ち位置である。「多くの女性は風早が好き」であっても、具体的な関係性は薄い。胡桃沢梅がそうであるように、風早にとっては単なる同級生ぐらいにしか思われていない。そして、多くの女性から好かれる男性を、主人公である女性が好きになる、または男性として意識するようになる。しかも、その「誰からも好かれるさわやかな男性」が、なぜか主人公の女性のことを好きになってしまう。この様な構図だ。
 主人公の女性が好きになるに相応しい、誰もが認める素晴らしい男性を演出するために、「主人公以外の多くの女性も好き」という設定は不可欠になる。その意味で、物語の構図は、一般女性(主人公)とアイドル(相手の男性)の恋愛物語となる。
 これは「海月姫」も同様である。詳細は描かれていないが、アイドルに位置する鯉渕蔵之介がどれだけの恋愛遍歴を重ねてきたか、そしていとも簡単に女性を捨てるドライな性格だと言うことが描かれている。そのドライなはずのアイドルが、なぜか主人公たる倉下月海のような冴えない外見の一般女性を好きになる。
 これらは女性作家による少女漫画特有の、状況設定なのだろうと推測する。


 これに比べて「銀魂」のハーレム設定は違う。主人公の銀時は男性であるから、ここはハーレム設定通りなのだが、絡んでくる女性たちが、必ずしも銀時を好きではない。恋愛感情をむき出しにしているのは、猿飛あやめ(通称、さっちゃん)ぐらいであって、他の女性たちは必ずしも銀時に恋愛感情を持っているわけではない。しかし、嫌いかというと、嫌いと言うわけでもなく、友人以上恋人未満のような設定の女性群像がある。神楽、志村妙、月詠あたりが、この立ち位置になる。
 主人公の銀時は、他のハーレムアニメに登場するような、まるで性欲が欠如した男性ではないが、自身が誰かを好きになって恋愛を展開するということもない。恋愛感情むき出しのさっちゃんを激しく拒絶していることからも、性欲のみの性行動があるわけでもない。
 構図としてはハーレム構図でありながら、恋愛感情という決定的な意志がそこにないので、準ハーレム的な物語となっている。


 さて、前置きが長くなったが正史が認めるハーレムアニメの虚構について論じる。「そもそもアニメなんだから、現実感がなくてもいいのだ」という指摘はその通りなのだが、現実と虚構がどう違うのかを押さえておくのは、それはそれで良かろう。


 まずアニメであっても、リアリティが高い作品もあることはあった。「School Days」と「ヨスガノソラ」である。
 現実の男性は、何も鈍感すぎるほど鈍感で、去勢された男性ではない。草食系はともかく、普通の性欲も持ち、恋愛感情も持ち、特定の誰か、または広く多くの誰かを好きになるだろう人間が、男性である。
 しかし、「School Days」と「ヨスガノソラ」のエンディングがそうであったように、物語における性描写もさることながら、間違い無くストーリーは悲劇になる。陰鬱とした展開は、視聴者が現実を忘れ虚構の中に身を漂わせ、ストレス解消を許してくれない。
 ハーレムを理想郷とする男性目線としては、ハーレムとは天国であって、地獄であってはならない。地獄とならないギリギリのところで、そう自分自身がアイドルとして、ピラミッドの頂点に君臨できる行き着くところまで行かない、一歩手前の中途半端な女性との関係にこそ、天国は存在すると仮想する。
 中途半端ではなく悲劇にもならず、しっかり一人の女性と恋愛関係を成就するという意味では、アマガミSSのようなアニメが一番適当なのかも知れない。


 さて、では現実社会にハーレムは存在するのか。一般的傾向として、貧富の格差が激しい社会にあっては、豊かな男性がハーレムを形成できる。宗教や文化の違いなどはあろうが、富を女性たちに分配するという構図で、ハーレムは成立する。
 江戸時代の大奥がそうであったように、女性の消費行動を認められる甲斐性がある男性でないとハーレムは形成できない。アニメであるような恋愛感情だけで成立するハーレムとは想像できない。
 ただし、宗教による擬似的家族の演出によって、ハーレムを形成することは、可能性がないわけではない。教組となる男性が、信者である女性たちを働かせて、貢がせて、自分はただ君臨するだけの、富の分配ではなく、富の収集を可能とするハーレムは、稀に存在する。
 ただし、それは富の分配によって成立するハーレムと比べれば、つつましやかな生活であろうし、贅沢極まりないというモノとは逆の形態にならざるを得ない。巨大宗教団体ならばいざ知らず、規模も小さい貧しさと隣り合わせのハーレムではないだろうか。
 その意味では、貧者の中に存在する逆ハーレム、つまり複数の男性で一人の女性を支えると言う構図に、むしろ似ている。戦後すぐの日本にあっては、兄弟で一人の女性と生活するという構図は、珍しくなかった。実際、兄が死んで、弟が兄嫁を正式に妻にするということなどもあった。

 梶原一騎「火乃家の兄弟」(のちに「青春山脈」に改題)
http://www.myagent.ne.jp/~bonkura/70s/seishyn.html
 この作品では、兄弟の弟が主人公なのだが、戦死した兄の妻を主人公が最期まで愛おしく思っていたという描写がある。現実には、兄が死ねば、弟が兄の代わりとなって夫となったりもするのだが、この物語では、兄の妻に子どもがいたことから、叔父でありながら実質的には親として、共に子どもを育てるという描写がある。
 この漫画などは、第二次大戦中から戦後にかけての日本の状況をよく表した作品だと言えよう。
 つまり、逆ハーレムとは、貧しさの反映によって成立する構図なのだ。


 ただし何でも例外は存在する。
「カノッサの屈辱」
http://ja.wikipedia.org/wiki/カノッサの屈辱_(テレビ番組)
 ここで、1990年10月8日に放送された「デート資本主義の構造」で発表されたように、バブル期にあっても逆ハーレムは存在した。しかも、この逆ハーレムは貧しさの反映ではなく、究極の富の象徴として、一瞬だけ咲いては消えていった時代の徒花として存在した。
 今では全て死語となってしまったが、当時は、普通の女性一人に対して、以下の男性たちがいた。(死語とはいえ、今でもいるかもしれない)


本命(心も体も充たしてくれる彼氏)
キープ(本命ができるまでのつなぎの男。または本命が頼りにならなかった場合《結婚できなかったり、デートできなかった場合など》の保険、本命の代用となる滑り止めとしての男)
ミツグ(何でもプレゼントしてくれる男。サンタクロース)
ベンリー(役立つ男。こき使うだけこき使っても、文句を言わない奴隷)
アッシー(車で迎えに来てくれる男。無料のタクシー)
メッシー(レストランで高級料理を無料でご馳走してくれる男)
ネッシー(寝るだけの男。つまりセックスフレンド)
ぴあ君(ミツグと同意)

 TV番組では、このように一人の女性を何人もの男性で支える構造を、何人もの株主で1つの会社を支える「株式制度」にたとえて揶揄していた。


 もちろんこれら全ての男性陣を揃えることができた女性は少数であろうが、本命とキープとか、本命とベンリーなどのような組み合わせは、バブル期にあっては、特別不思議でも何でもなかった。
 ちなみに存命している現代の40~50ぐらいの女性を捕まえて、当時の話を聞くと、詳しく教えてくれること間違い無い。


 さて、例外ばかり詳しく説明してしまったが、アニメにおけるハーレム設定が現実に存在しうるかという問いに対して、残念ながら、その可能性は低いと言わざるを得ない。現実に存在し得ないからこそ、虚構が求められるのだ。虚構は何も現実に従属していなければならないわけではない。絵画にしろ、映画にしろ、アニメにしろ、漫画にしろ、よく作品批判の常套句として、
「リアリティーがない」
 と言う紋切り型の口調を聞くことがある。
 それはその通りであり、間違ってはいないのだが、それは程度の差こそあれ、全ての物語に通じていることである。たとえそれが、NHKの大河ドラマのように史実に基づいて作られているような作品であったとしても、ドラマである以上、史実とは言えない脚色はたくさん存在する。ただそれを知っていて受け入れるのか、知らずに史実として受け入れてしまうのかは別だ。全くのフィクションを、あたかも史実であるかのように提供する制作スタッフは、詐欺師とも言える。またそのちょっとした嘘を史実として認識してしまうドラマファンは、虚構を楽しんでいるアニメファンよりも痛い。どれだけご自身が「痛い存在」かを、当人自身は全く無自覚であればあるほど、ますますその痛さに磨きがかかってくる。


 2010年作品「そらのおとしもの」第2話では、《天翔ける虹色下着(ロマン)》と題する回にあって、多数の女性モノの下着が空を飛ぶシーンがある。アニメ史上に残る、あまりにもバカバカい演出に苦笑するしかないのだが、このバカバカしさこそ、虚構のなせる技だ。そこには、突き抜けた素晴らしさがある。騙しの歴史ドラマよりも、誠実に忠実に男性の妄想を映像化している。そして、この虚構を、まさか「現実だ」と思ってしまうような人も、まずいるはずがない。


 不況だ、失業だ、自殺だと、現実社会が抱える多くの病理現象を、実際に解決するのが政治の仕事ならば、社会に疲れた人を実際に癒すのは、文学や絵画や映画やアニメやゲームや漫画のような虚構の作品群たちである。
 私たちは平素から、普通に現実と虚構の間を行ったり来たりしている存在なのだ。何も対象がアニメという表現方法だけで、都条例のように規制の対象にすべきではないのは言うまでもない。


2011年03月11日