パニックを避けたい思惑が、結局は人命を危険にさらす
日米で違う避難範囲 考慮する条件で差 冷静な行動を
2011年3月17日13時38分 asahi.comより
《解説》米国が、米国人の避難範囲を福島第一原発を中心とする80キロ以内まで広げたのは、燃料プールの水がなくなるなどの新たな情報を考慮し、米原子力規制委員会(NRC)が、より厳しい条件で計算するよう、判断を変えたことが背景にある。
米国では原発の防災計画が作られるのは原発から10マイル(約16キロ)以内で、避難もその範囲で行われる。15日に住民が被曝(ひばく)するであろう線量を計算したときは、「20キロ以内で避難」という日本の勧告について、「米国基準に合っている」と判断した。
その際、50マイル(約80キロ)先での推定被曝線量も計算しているが、16日に計算をし直した結果、依然として高いレベルだった。憂慮する科学者連合のエドウィン・ライマン博士は「このままだと50マイルが安全な距離ではない、とNRCは判断したのだろう」と指摘する。
日米とも、国際放射線防護委員会(ICRP)が定める住民の被曝線量限度に沿い、健康影響が出る線量を下回る同様の基準で避難範囲を決めている。だが、放射性物質は必ずしも同心円状に広がらないうえ、年齢により被曝影響は大きく異なるため、起きるであろうアクシデントの想定次第で、影響の大きさが変わってしまう。円形の避難範囲を一律に決めること自体が難しい。交通、住民の年齢構成なども含む様々な条件も考慮され、今回のように差が出ることは十分あり得る。
「避難範囲が広がった」と驚くことなく、冷静に行動することが求められる。(ワシントン=勝田敏彦)
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日本人の性格なのか、それとも政府の意向なのか、それとも東電の隠蔽体質なのか。
避難範囲の基準が日米で違うと言うことはどういうことなのか。
TVなどを見ていて、繰り返し言われることは、「安全だ」とか、「人体に影響を与えるほどの量ではない」などの、被爆という問題を過小評価する言葉ばかりだ。
原発事故という重大な問題を目の前にしても、冷静な権威者たちが、事態の沈静化を図るべく、安全・安心を繰り返していう様は、どう見ても信用できない。まるで詐欺師が「大丈夫ですよ」とでも言っているように、聞こえてならない。
それがいかに専門家による科学的なご高説であったとしても、素人にとっては、解らない分野だけに、より安全に対応したい、つまりより遠くに逃げたいと思うのは当然の心理だろう。
こと人命に関わる重大事件である。なぜ問題を矮小化してしか評価できないのだろうか。最悪の事態を想定して、必要以上に避難範囲を拡大することは、それを実行することが、どれだけ困難か、知っているからこそ、そのようなことをしないで済むように、日本政府は最低限の範囲でしか避難勧告をして無いように見える。
「生命と財産を守る」
とは、最低限、国が行うべき仕事なのだが、この最低限の仕事についても、今の日本政府の対応では不信感が募る。日本政府の発表をまともに信じる人がどれだけいるのだろうか。
もし自分の身を真剣に守りたければ、政府が20㎞離れろと言えば、50㎞離れるべきだし、米国が80㎞と言えば、100㎞以上、離れた方がいいだろう。
「すぐには人体に影響を与えるような被曝ではない」
巧妙な言い方である。人体に悪いとされるタバコでさえ、その場で仮に100本続けて吸ったからと言って、人体に悪い影響をその場で示すわけではなかろう。しかし、確実に少しずつ、人体は虫食まれていくのである。
放射能被曝も同じようなことではないだろうか。その場でどうにかなってしまうほど多量な放射能を浴びなくても、放射能を浴びたという事実は、確実に体内に蓄積されていくのだ。
私は放射能の専門家ではないが、そのぐらい用心して対応すべき事象であるにも関わらず、マスコミや政府が発表する数字や事態は、安心・安全ばかりを強調するだけで、聞いている側は、全然、安心・安全だとは思えないのである。
今、政府や東電が考えていることは、国民にパニックを起こさせないということが、第1の目標なのではないだろうか。国民の健康を第一に考えての対応だとはとても思えない。
とにかく、今その場で、国民の健康が変調をきたさなければ、1年後、2年後に、放射能被爆によって何かの病気になったところで、それが放射能とどれだけの因果関係があるのかなどと言って、政府や東電の責任はうやむやにしてしまうに違いないのだ。
現場近くで、被曝しながらも賢明に作業を続けている東電職員、関連企業の職員、自衛隊、警察などの方々には、本当に尊敬と畏敬と賞賛を感じるが、それ以外の一般庶民は、できる限り、現場から離れるべきであろう。20㎞~30㎞以内は屋内待機という指示が出ているが、普通の人の生活から考えて、一日中一歩も外に出られないなど言う生活が成り立つわけがない。屋内待機というのならば、できる限り広範囲にわたって、避難して、屋外でも自由に歩けるだけの安全な場所に一刻も早く逃げた方がいいに決まっているのである。
政府や東電は、なぜそのようなことが言えないのだろうか。
政府にしろ、東電にしろ、この様な災害が起こったとき、何を最優先にして、事態の収拾を図るべきかというプリンシプルが、「人命尊重」ではなく、「パニック回避」になっているのではないかと思う。
小手先の情報隠蔽や、事態の過小評価によって、国民をパニックに陥らせないようにしようとする懸命の努力が、最悪の場合、国民の健康を危険にさらすと言うことに、思いが至らないのではないだろうか。
今始まったことではなく、歴史的に同じ事(要参照→ http://www.t-ken.jp/diary/20100106)が言えるのだが、非常時、緊急時において、日本人は、日本人の命を第一に考えて行動する民族とは、とても言えない。時代は変わっても、この根本的な行動原理は、今も昔も変わっていない。
2011年03月21日