科学という名の新興宗教
鬼を一車に載す
2011年4月8日0時9分 asahi.comより
人類の歴史上、ルネサンス以後に広まった普遍的な新興宗教は「科学」だ。その進歩は常に人類に福音をもたらすと、万能の神のごとく絶対視されてきた。確かに今日まで文明の進歩に貢献してきた。
その科学信仰が揺らぎ始めたのは、ヒロシマ・ナガサキの悲劇をもたらした核兵器の開発だった。科学が初めて人類を滅亡にさらすもろ刃の剣であることが証明されたからだ。
それでも科学は核も制御できると人類は挑戦を続け、化石燃料に代わるエネルギー源として放射能を原子炉に閉じ込める原子力発電に踏み切った。その恩恵に浴している我々だが、原発事故で飛散した放射能に被曝(ひばく)したかどうかは視覚、聴覚、嗅覚(きゅうかく)、味覚、触覚の人間の五感では感知できない。怖い鬼を同乗させる「鬼を一車に載す」恐ろしさがある。
チェルノブイリ原発事故の時は約2千キロ離れたロンドンに住んでいたが、水、ミルク、ジュースが店から消え、汚染雨が降ったスコットランド地方の羊は出荷停止。「シルクハットと黒傘は装身具」と気どる英国紳士も傘を広げて歩くなど英国中が騒然となった。西欧は一致して東欧からの生鮮食料品全面禁輸を図ったが、“食”のイタリアが反対、各国別の対策に切り替えた。
東日本大震災、福島原発事故で海外の友人たちからの見舞いが相次いだ。いつでも避難して来てくれと申し出てくれた米国や台湾の友人たち。日本は必ず立ち直ると激励してくれる友人も多いが「ありがとう。でも、日本の力の源はこの国の政治でも有能とされる行政でもなく、苦難に立ち向かう一人一人の日本人の自力と資質にあるのです」と注釈付きで返礼を出している。(昴)
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科学を万能視する人は、非科学的なことを言い出すと、嘲笑し、あたかも無知蒙昧なる人に対して、知識ある人間が何かを教え諭すように、科学を説く。
その度に、私は、「あー、この人も科学を信じる信者に過ぎなかったのか」とガッカリする。
科学は科学によって否定されてきた。それが科学の歴史だ。
足利事件では、DNA鑑定という科学的捜査が、後年のもっと精度が高くなったDNA鑑定という科学捜査によって否定された。
もし科学に対して、謙虚な信頼を寄せるのであれば、今信じている自分自身の科学が、将来の科学によって否定されるかも知れないという可能性に対して、恐怖すべきだろう。その恐怖が、人を謙虚にさせるのだが、恐怖心を持たない、科学信者たちは、科学の説得力を万能の如く使い、人々を説得しようとする。思い通りに動かそうとする。
私はどんなに科学的に説明されようとも、科学を盲信しない。
今回、原発事故によって、多くの放射能が漏れた。このことに対して、多くの御用科学者たちは、必要以上に安心・安全を宣言し続けた。
正に科学による人々への洗脳である。それをまともに信じていたら、守れる家族も、守れる自分自身の肉体も守れやしない。
私も含め、無知蒙昧なる市民が、必要以上に、放射能を恐れることを私は肯定する。それならば、まずは、必要以上の避難をさせて、安全を確保してから、逆に徐々に避難地域への一時帰宅を許すような対応こそが、必要だったのではないだろうか。
避難地域を、小出しに拡大していく、現在の政府の対応は、場当たり的であり、全く信用できない。
今、ここで必要なのは、科学を信じることではない。科学で説明されたとしても、自分の信念を信じ切る頑迷なる行動力である。今、この国難に遭ってこそ、政治家の危機管理におけるセンスが問われている時代はない。
2011年04月12日