落選候補者を励ます会に出席して考えたこと
早い話、落選者を酒の肴にして、酔っぱらおうという企画である。もちろん、私は酒を飲まずに水を飲んでいたのだが、大いに楽しんだ。
なぜ落選したのかという話題になった。気を抜いた。選挙を甘く見た。やるべき運動を行ってこなかった。反省の言葉が続く。それらの言葉はどれも、私自身の運動に当てはまっているように感じた。
ただ、当落線上を境にして、私はちょっと上だったので当選。彼はちょっと下だったので落選。票数的にも順位的には、その程度の違いでしかないのに、当選と次点とでは、雲泥の差があるのも、この世界の残酷な現実である。
落選したって、まだまだ良い生活をしているじゃないかという話題になった。家はある。車はある。仕事はある。議員をしていたという実績がある。今回の大震災で被災した人たちを見てみろ。家族から、家から、何から何まで流されてしまった人たちだっているんだ。
そう言って、慰めていた人もいた。
私から見れば、とても残酷な慰め方だと思った。
人が幸や不幸を感じるのは、社会的な絶対位置ではない。過去から現在への傾きの度合いによって、人は幸と不幸を感じるのである。急激な右肩上がりであれば、そこに人は大きな幸福を感じる。急激な右肩下がりであれば、そこに人は大きな不幸を感じる。ある意味、絶対位置は関係ない。過去と現在の相対位置の関係性こそ、当事者である本人には重要なのだ。
「はげます会」では、その場にいたみんなが、落選した彼を応援している。真に、彼にはまた議員になってもらいたいと誰もが思っている。もちろんその気持ちにはウソはない。
しかし、人間の気持ちは、とても複雑で、時には残酷である。
励ます気持ちは偽りではないが、人はそれと同時に、落選者を見てみたいという気持ちも持つ。落選者を見て、彼の落ち込んだ姿を見て、そして、「まだ自分の生活の方がマシなのではないか」と、見ている者が、見ている自分を慰めるために、「慰める」という行為に及ぶことだってあるのだ。慰めるという行為によって、このときとばかり、落選者に対して大きな顔をして、自らのストレスを発散したいのである。
大震災で被災した人たちを救おうと、多くの方々がボランティアに行っている。しかし、その動機には、ドロドロしたものが、全く無いとは言い切れない。ボランティアが、被災した人たちのためであることは、間違い無いのだが、それは同時に自分のためでもある場合があるという。
実際にボランティアを体験した人から聞いた話だが、口舌では言い尽くせないほどの悲惨な体験をした人を見ることによって、ボランティアの中には、精神が救われる人がいるというのだ。自分が今、体験している不幸よりも、もっと大きな不幸を抱えた人が眼前にいると、何となく、まだ自分の方が幸福のように思えてしまう。目に見える他人の不幸が、自分の気持ちを幸福に感じさせてくれる。残酷のようだが、これも人間の精神の特徴なのだ。
それでも私は、そのような人間の精神構造を肯定する。
「不幸な女性に、女性は優しい」
この言葉は、一面の真理なのだ。
それであったとしても、不幸な人を見ることで幸福感を感じるような邪心をもったボランティアと、心の底からお見舞いを申し上げつつ、家の中から一歩も外に出て行かない人と、私が被災者ならば、どちらの人をありがたがるだろうか。
私ならば、間違い無く前者をありがたがる。人の心の裏などは、所詮、他人にはわからない。打算があったり、邪心があったり、悪意があったりもするだろう。それでも、結果として、実際に動いて、実践によって、多くの人のためになるような働きをしてくれる人が、私は役立つ人だと思う。
罵詈雑言、不平不満を言いつつ、お金を払ってくれた客と、「とても良いお仕事をしていますね」と評価だけしてくれた客と、どちらが店員にとってはありがたい客か。私は前者だと思う。
義援金は、その配分を巡って、すぐには被災者には届かないお金だと言われている。1年後、2年後、それ以上先にならないと、適切な分配が決まらない場合もあり、そう簡単に分配などできないらしい。それならば、私は、義援金を送るのではなく、自分自身が現地に行って、たくさんのお金を持って、飲んで、喰って、騒いで、お金を大いに使った方が、どれだけ即効性のあるお金が現地に落ちるのかと、つくづく思う。
そうだ。外国や他の地域に行くつもりならば、少しでも多くの人たちが、東北地方に遊びに行ってあげた方が、私は良いと思う。
何も被災者のためなどという崇高な使命感など強く持たなくて良い。純粋に現地に行って多くの人たちが、“自分たちのため”に遊んでくればいい。私の考えは、それで良いと結論づけている。その行為が、現実に被災地にお金を“今すぐ”落とすことにつながるのだから。
この場合、私は結果を重視する。
当然の話だが、世の中には、他人に遊んでもらって、儲かっている仕事もたくさんある。震災直後だと言うこともあって、今は何か行うこと、特に遊びに行くことを自重する風潮がある。気持ちとしてはわからないでもないが、こと東北には多くの人たちが遊びに行って欲しいと、私は願わずにはいられない。
もう少し落ち着いたら、私も落選した友人を連れて、東北地方まで遊びに行ってみたい。義援金とか、支援金などではなく、正当な労働の対価として、被災された方々には、お金を受け取って欲しい。
それと同時に、私は落選した友人政治家が、いつか再び議員に復活してくれることを、切に願ってやまない。
2011年05月03日