取り調べの可視化に関する周防正行監督の発言の要約
2014年3月25日 取り調べの可視化を求める市民集会「取調室にシナリオは要らない」に参加して
現在、法制審議会特別会委員である周防正行氏(「それでもボクはやってない」の映画監督)の発言を中心に列挙し、現代日本の司法における問題点について、指摘します。
※法制審議会とは、法務省に設置された審議会の一つ。これから新しい刑事司法について話し合う場所。
周防正行 映画を撮影するに当たって、様々な取材をしたわけですが、これまで私が考えていた裁判と実際の裁判が大きく違う。これは多くの人たちも、この様な誤解をしているのではないだろうかということです。たとえば、取り調べにおいて警察が創作した作文である調書ですが、作文であるにも関わらず一言一句にこだわっています。作り物に過ぎない調書を、裁判では証拠のように扱っている。このような裁判を「調書裁判」というのですが、この様な実態を知ってもらいたいと思って映画を作りました。
映画を作るに際しては、傍聴回数としては200回以上の裁判を見てきました。
「調書裁判」の問題点は、自分の言葉が人の作った文章によって作り替えられることにあります。おおむね調書が正しければ問題無いとする考え方もあります。それでもなぜ被疑者が言ったことをそのまま調書にしないのか、法務省の役人に問うたところ、「そのまま書いていたら、とても読みにくくなるので警察官が読みやすいように書き直している」と言われました。「あれは親切で作っている。裁判官にわかりやすい文章にしている。一言一句書いていたら、訳がわからない調書になってしまう」そうおっしゃるのです。
映画で脚本=シナリオを作る場合は、先にあらすじを作るわけですが、取調室では警察官が作ったあらすじに従って、被疑者の話を引き出していくのです。またはそのあらすじに沿った発言だけを記録していくのです。
法制審議会の様子をお伝えします。各会を代表する有識者が参加しています。
裁判官の委員については、取り調べの可視化についてどう考えているのかということですが、裁判官の皆さんの考え方は「市場原理主義」なんだなと思います。裁判という市場の原理という意味です。裁判所としては、これからは裏付けのない調書をそのまま信じることはできないという立場です。ですから録音・録画されない調書が証拠として採用されなければ、警察・検察は自然と取り調べにおける録音・録画をするようになるだろうというのです。だからこそ、録音・録画を全ての事件に義務づける必要はない。もちろん、全ての事件、全過程を録音・録画されても構わないわけですが。
このような発言を聞いて、僕は「裁判市場原理主義」と勝手に名づけたわけです。
現状でも随分変わってきているのだから、このままにしておけば自然と良い方向に変わっていきますとおっしゃるのです。もう後戻りはできないのですから、取り調べの録音・録画についても試行という形で行われていて、調書が怪しいものだということも裁判所は既にわかっています。ですから、裁判官だって調書を丸ごと信じるなんて事はないですよ。
重大事件で、調書が録音・録画がない場合、本当にその調書を証拠採用しないなんてことができるのだろうか。できないのではなかろうか。だからこそ法律できちっと決めて、録音・録画を義務づけることが必要。それがないときは罰則規定がないとダメだ。現場判断では決して良くならない。
検察側としては、このような審議会を作るきっかけとなった村木事件(=障害者郵便制度悪用事件)における被告人的立場にありましたから、警察ほど強く抵抗はしてこなかった。
やはり1番強く、取り調べの可視化に抵抗しているのは警察。警察関係者がいう組織犯罪や性的犯罪の二つの大きな犯罪をもって、全ての犯罪を取り締まる基準とするのはおかしい。確かにこの様な犯罪については、真剣に考えなくてはいけないのだが、だからと言って、全事件を録音・録画する弊害があるという理由にはならない。
あと警察の方がよく言うのは、「物理的に全事件を録音・録画するのは無理だ」。そのような取調室を用意して、機材や人材を用意することはできない。
だから私は裁判員裁判事件から録音・録画をする。ここだけは始めてくださいよといいます。そして近い将来、体制が整ったら全事件の録音・録画をすればいいと。
警察としては、録音・録画を認めてしまっては、今まで自分たちが行ってきた取り調べのマニュアルが全く使えなくなる。全く新しい取り調べの方法を考えなければいけない大変さえを嫌がっている。
昨今の冤罪事件などを受けて、警察は自分たちの取り調べのやり方に問題があると、批判的に考えているのではなかろうかと思っていたわけですが、この会で話す限りでは、警察は全く反省していません。これがよくわかった。録音・録画しても、良いことなど一つも無いという警察関係者もいた。
それならば最後まで反対しろよと、私はいいたい。それなのに、こことここは録画してとか、一部録画に好意的なことを言い始めているのです。これは、反省はしていなくても、自分たちの捜査のあり方に批判が集中している事実があることを知っているからだと思う。警察はもっと真摯に自分たちの取り調べのあり方について検証してほしいと思う。
パソコン遠隔操作事件において二人の方が、嘘の自白をして動機まで調書に書かされたということがありましたが、あれについて警察関係者の言い分は、「嘘の自白に騙されてしまった。(会場から笑い)嘘の自白に騙されないような捜査をしなければいけない。嘘の自白を見抜けるようにしなければいけない」と反省している。その発言を聞いたときには、やはりこの人達は、「自分たちの捜査に間違いは無い」と言い続ける人たちだと知って、愕然としました。
既に可視化を実施している外国もあるわけですが、これについて警察関係者の言い分は、「どうして世界で1番治安が良い日本が、治安の悪い諸外国の取り調べを見習わなければいけないのか」とおっしゃっています。学者の中には、日本と外国では法制度自体が違うのだから、一概に日本と比べるわけにはいかない。日本の実情に合った形で考えるべきとの意見もある。
取り調べの可視化の対象は、何も被疑者だけではない。参考人の時も本来、可視化すべきです。これは警察が言っていることなのですが、参考人と言っても、レベルがあります。現場での聞き込みや、ドア越しに話を聞いたりすることもあります。そこまで録音・録画するのかと言い出すわけです。
私が意見書の中で具体的に書かせてもらったのは、“二号書面”という参考人の供述を公判において証拠として採用する可能性がある書類については、その取り調べの過程の任意性をハッキリさせるためにも、録音・録画は必要と書きました。
あともう一つ僕が危惧しているのは、被疑者だけの録音・録画が義務づけられたとしたら、「逮捕する前に調べてしまえ」ということになります。今でも行われていますが、参考人で警察まで引っ張ってきて、ガンガン攻めておいて、目処が立ったところで逮捕して、そこから調べるということが一般化しないだろうかということです。被疑者で録音・録画をしなければいけないのならば、参考人で引っ張ってくればいいと警察が考えるようになると予想されます。だからこそ、参考人の段階から、取り調べの録音・録画はすべきだと考えています。
「マイクとカメラを突きつけたら、誰が本当のことを言いますか」と警察は言いますが、このような発言が出ること自体、警察は録音・録画に消極的だと言うことがわかります。今後、取調室では録音・録画が当たり前になれば、少なくとも被疑者は「そんなものか」と理解して、普通に話せると思います。ドキュメンタリーを撮ったりするとわかるのですが、撮られている側は、最初こそカメラを意識しますが、その内に撮られていること自体を忘れたりするのですね。人間って、その場に慣れるわけです。
警察にとっては、被疑者が話しにくくなるのではなく、自分たちが話しにくくなるから反対していると思います。警察の本音を翻訳して言えば、「誰がカメラの前で、取り調べなんかできるのですか。そのような中で取り調べたくない」という警察の都合優先なんですね。
今の問題は取り調べの録音・録画なのですが、実際の録音・録画では、カメラのポジションなども問題になってくるわけです。香港での取り調べの画像を見たのですが、だいたいは取調官の後から撮って、被疑者の顔のアップが写っていました。なぜ取調官の顔に向いているカメラは無いのか。それがあって始めて、取調室の状況が公平に録音・録画されていることになるのだろうと思います。ですから、この先の問題としては、録音・録画が実施されるようになれば、そのカメラポジションについても検証していきたいと思っています。
2014年04月06日