当然、関連して考えるべき
長崎市長、脱原発訴える 原爆の日・平和宣言
8月9日(火) asahi.comより
長崎は9日、戦後66年の原爆の日を迎えた。長崎市松山町の平和公園で市主催の平和祈念式典があり、田上富久市長は「原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要」とする平和宣言を読み上げ、被爆地として脱原発へ踏み出す考えを表明した。
原爆投下時刻の午前11時2分、黙祷(もくとう)が捧げられ、続いて田上市長が平和宣言を読み上げた。東京電力福島第一原発事故を受け、「『ノーモア・ヒバクシャ』を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅(おび)えることになってしまったのか」「人間の制御力を過信していなかったか」と指摘。「長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換」が必要として、脱原発を目指す考えを示した。核兵器廃絶、北東アジアを非核兵器地帯とする構想の実現も訴えた。
原発事故を受け、今年の平和宣言で「脱原発」を盛り込むかが最大の焦点だった。田上市長は、産業や市民生活への影響に対する議論がないとして「脱原発」に踏み込むことには慎重だったが、最終的には「原子力にかわる」という表現で脱原発を目指す宣言を読み上げた。宣言文を練り上げる学者や被爆者らの起草委員会での議論を経て、「二度とヒバクシャを生み出してはいけない」との市民の声に背中を押された。「原発ゼロへのプロセスは私もまだ分からない。でも、最終的にシンプルに、うそのない原点に立ち返ろうと思った」と田上市長。「ヒバクシャを絶対につくらない、その道の行き着く先は原発ゼロだ」と言う。
式典には、原爆を投下した米国からズムワルト駐日臨時代理大使(首席公使)が政府代表として初めて出席。このほか、核兵器保有国の英、仏、ロシアを含め、過去最多の44の国や欧州連合の代表が出席した。東日本大震災で被災した福島県いわき市の中学生43人と福島市の瀬戸孝則市長も参列した。
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昔話になるが、かつて委員会視察で、広島市に行ったとき、私は委員会視察とは直接関係が無かったが、広島市では、原発のことをどのように考え、どのぐらいの電力供給を原発から受けていますか?
そのような質問をしてみた。
そうしたら、自民党議員たちが、ちょっと慌てた感じて、目配せした。委員長からは、「その質問は、委員会視察とは関係ない質問なので、答える必要は無い」そう言って、私の質問を黙殺した。
もう10年近く前の話だ。当時から、広島と長崎という悲惨な経験をしてきた日本にあって、どんなに原爆の悲惨さを、世に訴えていたとしても、原発の問題は、原爆と切り離されて、デリケートな問題として扱われていた。
今さら、民主党による現執行部の責任を追及することは他の政治勢力におまかせしよう。しかし、よく言われるように、自民党こそが、これまでの原子力行政を積極的に推進してきたのだと言うことを、忘れてはならない。
一部の自民党議員は、やっと気がつき始め、「脱原発」を目指す政治勢力となるかもしれないが、これまで原発行政に対して無批判だったことに対する批判は、負うことになるだろう。
政権交代という行事もそうだったが、日本は伝統的に対抗勢力を育てることが苦手だった。主勢力と対抗勢力を互いに競わせて、お互いが、お互いの不備をチェックし、国民の利益が最大限になるように務める。それがシステムとして機能していなかった。
原子力安全・保安院にしても、実際はブレーキ役にならなかった。
日本は和の国であるから、仲間から徹底して嫌われるようなことはできない。だからこそ、結果として正しいことよりも、現状維持が優先され、改革は為されずにコトが進んでいく。それが大きく失敗して、ダメージを受けたときに、つまり誰も仲間内からは嫌われ者を出さなくても、明らかに今までの運営が間違っているとわかったときに、初めて方向転換が図られるような社会なのだ。
今回の原発事故は不幸の事故ではあったが、これからの日本がどのようになっていくのか、大きな試金石となっている。共に見守って行こう。
2011年08月09日