田中けんWeb事務所

江戸川区議会議員を5期18年経験
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日刊田中けん

賞の取り消しはありか?

“レイプ”内柴容疑者、県民栄誉賞取り消し
                2011.12.08 zakzakより
 熊本県は8日、警視庁に準強姦容疑で逮捕された男子柔道金メダリスト、内柴正人容疑者(33)に授与していた県民栄誉賞を取り消すことを決めた。午後に蒲島郁夫知事が緊急記者会見し、正式に発表する。警視庁は同日、準強姦容疑で内柴容疑者を送検した。


 熊本県は2004年のアテネ五輪で金メダルを獲得した内柴容疑者に県民栄誉賞を授与。08年には北京五輪で連覇を果たしたことから、急きょ新設した県民栄誉賞の「特別賞」を贈っていた。
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 ここでは、内柴正人氏が有罪か無罪かを論じない。ただし現時点では、推定無罪の考え方に基づき、氏は無罪であるとの認識に基づき対応する。


 私が論じるのは、自治体が個人に与える賞についてである。
 さて、今回、報道によると熊本県は内柴氏に対する県民栄誉賞を取り消すと決めた。
 人間は生身の存在だ。存命中は、善行もすれば悪行もする。生きているということは、評価が不確かな存在になりかねない。
 もし個人に与えた賞を取り消せるのならば、内柴氏が県民栄誉賞をもらう根拠となった金メダルを真っ先に剥奪すべきだと思うが、今のところそのような報道は無い。


 まず熊本県の対応が軽率だと思うのは、内柴氏が裁判の結果、もし無罪になったら、県民栄誉賞はどのような扱いになるのか。
「一度取り上げましたが、もう一度もらってください」
 とでも言うのだろうか。
 拙速な対応により、はからずも熊本県とは、「推定無罪」の原則を理解しない“愚かな自治体”ということが証明されてしまった。
 仮に賞を取り上げるとしても、裁判結果を見て、それによって有罪・無罪の結果を見極めてから対応しても遅くはない。
 今はまだ、賞を出してしまった責任を痛感し、多くの人々からの非難をじっとして受け止める忍耐力が熊本県には決定的に欠けている。


 また仮に有罪になったとしても、それによって氏が金メダルを取ったという業績に対する評価は変えるべき事なのだろうか。


 私はこの様な問題に遭遇したとき、必ずと言って良いほど、ジャンジャック・ルソーの話を持ち出す。
 ジャンジャック・ルソーとは、それまで君主に主権があると考えられていた価値観から、国民にこそ主権はあると考えた人物だ。現在、あたりまえのように享受している民主主義はジャンジャック・ルソーの業績によってもたらされたモノであり、現代人の我々はジャンジャック・ルソーの存在無くして、今の生活は無かったかも知れないと言えるほど偉大な人物である。
 しかもジャンジャック・ルソーは、教育学における古典的名著「エミール」の著者でもある。
 教育こそが一番大事と唱える政治家は非常に多いが、それならば「エミール」の神髄は少しぐらいかじっておく必要があるだろう。
 ジャンジャック・ルソーは、教育によってこそ、人間は自由になることができると説いた。君主の子どもは君主。大工の子どもは大工。農民の子どもは農民のような身分制が当たり前の時代にあって、「人間は自由だ」、つまり教育によって、子どもは自らが望む何にでも成れるという発想は、どれだけ当時の社会では危険思想だったのか、想像に難くない。
 またジャンジャック・ルソーは、道徳教育については以下のように語っている。道徳とは上からの押しつけによって身につくモノではない。大人が理屈によって、道徳を教え込もうとすれば、子どもは、褒美をもらうため、罰を逃れるため、嘘をついて大人たちを簡単に欺き、取り入ろうと小ずるく立ち回ることだろう。子どもには、大人と違う子ども本来の感性がある。その感性を大切にしながら、人間関係を通じて、道徳教育とは行われることが必要だ。
 道徳教育の必要性を説く通俗的な政治家には、耳の痛い一文ではないだろうか。


 さて、このように人類史にあって、素晴らしい業績に満ちたジャンジャック・ルソーではあるが、個人の生活はいかがなものであったか。


 ジャンジャック・ルソーには5人の子どもがいたが、「僕には育てていく自信が無い」と言って、強く反対する妻を押し切って、全員を孤児院に預けてしまった。また知的障害者に性的虐待を行い、何度も妊娠させ、次々に女性を捨てている。しかも、少年時代は強姦未遂で逮捕されたこともあったという。

 はたしてこの様な人物が、素晴らしい人格の持ち主と言えるのだろうか。私にはとても言えない。人の行動に対しては、奇行も含めて相当寛容だと自負している私でさえも、ジャンジャック・ルソーは「人でなし」だと断言できる。
 しかし、「人でなし」だから、彼の業績は無価値なモノか。断じて否である。


 つまり、個人の業績と人格は、本来関係ない。いやもっと言えば無関係で無ければならない。


 奇人・変人・天才・神童・救世主・犯罪者。全てが紙一重であり、そのような人智を越える異能の才を持った人物に対して、凡人が賞を与えるなど、考え方によっては非常におこがましいことではないだろうか。


 はてさて熊本県の軽率な対応について、我が江戸川区はどのようにこの問題を考えるのか。私は大いに「他山の石」とすべき事象だと思うが、いかがであろうか。とても興味深い。


2011年12月09日