言うこととやることが、違っていても時にはいい。
ヨハネによる福音書(口語訳)第8章3節から11節までをから引用する。
8:3
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
8:4
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
8:5
モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8:8
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
8:10
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
8:11
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
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人が人を許す。
個人の徳目としては素晴らしいことだ。
しかし、それは個人の徳目としての話であって、職業では別だと言わなければならない。
政治家はよく大層なことを言う。
偉そうなことを言う。
それだけでも聞く人が聞けば、
「なんだ偉そうに」
この様な反発心を持たれるだろう。
でも私はその立場に立つ人間が、
「偉そうなこと」を言い、
それを実行することでこの世の中は成り立っていると信じている。
それは例え、本人が言っていることと、
やっていることが違うとしても、
言わなければならない時があるのだと信じている。
それを正当化するのは、
職業なり、立場なり、
周囲に期待されるその人の役割を演じるときだ。
昔、社会主義運動をした男性の中には、
口では「男女平等」を叫んでいても、
自分の家庭では、非常に家父長的振る舞いをしていた人もいたと聞く。
この様な話を聞くと「だから社会主義はダメなんだ」
という話になりがちだが、問題は社会主義の良し悪しではない。
ある立場にある人が「男女平等」を政治信念として強く思うのならば、
例え自分ができないことであっても、
公に主張しても、それを批判しない。
逆もまた真で、普段から男女差別著しい発言が目立つような人であっても、
家庭に戻れば、愛妻家や恐妻家であることも何ら矛盾無くありうる。
「言っていることと、やっていることが違う」
これは説得力を著しく欠く人間の行動だ。
それにしても、自分ができないのに「『しろ』と言ってはいけない」とか、
自分がやっていても他人に「『するな』と言ってはいけない」
などということは、無いと思う。
昔、あまりにも指導が厳しいコーチに対して、
選手が言った一言がある。
「そんなに言うのならば、お前がやってみろ」
これは言ってはいけないタブーなのだ。
選手とは、特別な人なのだ。
一般人とは違う。
「コーチ」をファンや一般人に置き換えても良い。
選手が持つ特有のいらだちや怒りは、
想像できるが、でもそれは、他の人にはもっとできない話だ。
それでも、コーチやファンや一般人は口を出す。
警察官の仕事一つ取ってみても、
自分自身が日々、清く正しい行いをしていないと、
犯人を捕まえることはできない。
この様に思い悩んでしまえば、仕事はできない。
元警察官の方にお話しを聞いたことがあるが、
「正義感を持って仕事をするな」
と教えてもらったことがある。
すかさず私が、
「それでは何のために仕事をすれば良いのですか」
この様に聞きただしたところ、
「少なくとも、給料分の働きをすれば良い」
この様な回答が帰って来た。
その答えに対して、当時の私は妙に納得していた。
職業に対して意欲的ではない発言のように聞こえてしまうかも知れないが、
貴重な意見だと思っている。
権力の持つ怖さを考えると、過剰な正義感こそが、
世の中を狂わせるのではないかと思う。
そのような激情を戒めるためにも、
少し冷めた部分を持つことの重要性を説いた言葉だと受け止めた。
この世の中を狂わせてしまうのは、
悪ではなく、ねじ曲がった「正義感」ではなかろうか。
ここ数年、そんな事例を、我々は同時代を生きる者として、
目撃してきたはずだ。
「この者を何が何でも犯人にしたい」
そのような正義感から、
警察や検察が、勝手に証拠を改ざんし、
罪の無い人を罪人へと追い込んでしまう。
そのような冤罪事件からも学ぶことは多々ある。
逆に「自分はそれほど素晴らしい人間でも無いので、人を裁くことはできない」
として、裁判官が全ての被告の罪を断罪できないとなれば、
それはそれで社会はおかしくなってしまう。
人間はその言動に矛盾をはらんだ存在だ。
その不統一性は、尊敬されるようなことではないが、
不完全であるが故に、極めて人間らしい。
どんなに素晴らしく見える人であっても、
家庭ではだらしない人かも知れない。
どんなに働きが悪い人であっても、
家では良き家庭人かも知れない。
小説「蜘蛛の糸」の中で、根っからの悪人のような主人公が、
生前、小さな蜘蛛を見つけたときに、
踏みつぶさず、命を助けるような善行はしているのだ。
この世の中に、全くの悪人とか、
全くの善人などいるはずがない。
2012年02月16日