何を根拠に、その生物を人と呼べるのか
今よりもずっと昔、人が歩ける範囲しか世界を知らなかった頃、
他の種族と始めて会った人たちは、どうやってその生物を、
人だと認識できたのだろうか。
種族ではわかりにくいならば、有り体な、白人と黒人と黄色人種という呼び方でも良い。
どうやって、それぞれの個体差を超えて、全てが人だと理解し得たのだろうか。
今では、全ての種類が人であると言うことは、当たり前のようだが、
私の限定的な想像力を働かせて考えれば、
未知なる種族との遭遇で、その種族を人だと理解することは、
相当困難なことではなかったかと思う。
そこに差別や偏見が生まれたとしても、むしろそれは不可抗力であって、
いやその方が自然であって、最初から未知なる種族を自分と同種の
人間と理解することの方が、あり得ないぐらい不思議なことではなかったのではなかろうか。
現代において差別や偏見を肯定はできないが、
その“肯定できない”という価値観も、長い時間をかけて人類が獲得した価値観であって、
差別や偏見の発生時においては、致し方ない事情も大いに考えられるのだ。
では、人はどうやって、見た目同種では無い種族を、同種と理解できたのだろうか。
とどのつまり、私が想像するに、性交によって子どもが生まれたと言う事実によって、
実は同種だったと理解できたのでは無いかと思う。
差別はいけないとか、偏見は良くないという倫理観が先に合ったのでは無く、
子どもが生まれたという否定しがたい事実があって、
人は他者を人と認めたのだろう。
つまり未知なる生物か、人か人で無いかは、両者の間で子どもが生まれるか、
生まれないかで、判断してきたのではないだろうか。
事実、人と猿が性交しても、子どもは生まれない。
人と犬が性交しても、子どもは生まれない。
人とネコが性交しても、子どもは生まれない。
人と○○が性交して、子どもが生まれれば、
○○は人として認定しても良いのでは無いかという考え方だ。
逆もまた真で、人は○○だと、言えるのではなかろうか、と言うことだ。
ついついアニメなど見ていると、何気ないことだが、
本来あり得ない設定を、
まるであり得る設定のように理解したつもりで、
そのまま話に夢中になってしまうことがある。
ギリシャ神話を代表作として、世界各国の神話の中には、
神と人間の子どもがたくさん出てくる。
神と人間という固定概念から抜け出せば、
子どもが生まれた事実から、
逆に考えて、神とは人間のことであり、
人間とは神であるとも考えられる。
つまり神と人間は同種であると。
同様に、物語の中には、
悪魔と人間の子どもや、
妖怪と人間の子どものような設定もたくさんある。
そうなると、子どもが生まれたという事実から、
悪魔は人間でアリ、人間は悪魔だと言える。
妖怪は人間でアリ、人間は妖怪だとも言える。
つまり、それぞれは同種であると。
神、悪魔、妖怪という位置に、
宇宙人やまだ見ぬ生物を置き換えても構わない。
それが何であれ、子どもが生まれれば、
それは人だと言えるのだ。
日本人と外国人が結婚して、
子どもが生まれた場合、
その子どもは日本人になることができる。
この様な場合、日本人を生んだ(または生ませた)外国人は、
見なし日本人として考えられなくはなかろう。
差別や偏見、他者との違いを強調しすぎない社会を作るためには、
様々な人たちの間で混血が進み、
ゆっくりと人種が平準化していくことが、
必然となってくるのだろう。
100年後、200年後、1000年後、
地球上の人間は、その遺伝子的違いがほとんど意味をなさなくなる。
通俗的によく言われる国民性の違いは、その風土に根ざした
文化の違いによってこそ大きく変わることはあっても、
遺伝子レヴェルでは、ほとんど変わらなくなる。
日本人は日本人という概念によって存在し得ても、
1000年後の日本人は、100%今の日本人をコピーした
日本人では無くなる。
これは避けられないし、それが日本人の生きる道だ。
遺伝子さえも長い年月をかけて変わっていくのだ。
日本人が日本人であるためにも、
少しづつの変化は認めつつも、過去から継承されてきた文化を
できる限り大切にしたいものである。
私たちが、日本人である証明のためにも。
2012年03月18日