誰でも良かったという現実
アニメ「未来日記」第25話「リセット」より
【状況説明】幻覚空間に閉じ込められた主人公雪輝と、幻覚空間の天井にできた隙間から、主人公を見下ろすヒロイン由乃との会話。
由乃「ダメ。それじゃ私、ユッキーを失っちゃうじゃない。神が決まらないと、2周目の世界は滅びて無くなっちゃう。神を決めずに、2人一緒には帰れないの。それなら私は、あなたをここに閉じ込めて、新しい3周目世界のユッキーに会いに行くわ」
雪輝「あぁぁぁぁぁ」
由乃「私にはユッキーという支えが必要なの」
雪輝「何言っているんだよ。それで僕を捨てるのか。それでまた狂ったように人を殺して、それでまた命までかける気かよ」
由乃「お願い。言わせないで」
雪輝『由乃ぉー』(←由乃の名前だけ、なぜか音声にできない)
由乃「私は依存できる人間なら、誰でも良かった」
雪輝「あっ」
由乃「あなただって守ってくれる人間なら、誰でも良かったはずよ」
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世の中で1番、「誰でも良くない」という感情が恋愛感情だ。
しかし、その恋愛感情の相手でさえ、所詮は「誰でも良かった」のだと、アニメ「未来日記」のヒロインである我妻由乃に、作者は吐露させている。
ちなみに我妻由乃は、雪輝があまりにも好きすぎて、彼のためならば、全てを犠牲にできる頭脳明晰、容姿端麗な中学二年生女子として登場する。「雪輝のため」という彼女特有の唯一無二なる信念を前にすれば、常識的な価値観などつけいる隙は無く、殺人さえもためらわない。「雪輝のため」にならないと判断すれば、雪輝の親を殺すことさえ思考する。いわゆるヤンデレである。
その由乃をして、物語の終盤になって、「私は依存できる人間なら、誰でも良かった」と言わしめるのである。
このセリフを聞いて、私は「ハッとした」。
この世の中を冷静に見つめてしまえば、どんなに感情的には否定したがっても、ほとんどの現実は「誰でも良い」のが今の社会だ。
私という絶対性は揺るがないとしても、私以外の何か、他人は全て、それは例え親や恋人であっても期待する役割を果たしてくれる人であるのならば、「誰でも良い」という意味は、「その人しかいない」という絶対の反対語である相対性に他ならない。
相対的とは、つまり「誰でも良い」ということであり、現実の人間は、物語の主人公やヒロインと違って、意外と状況に応じて、柔軟な対応ができる。
私が絶対性に疑問を持ったのは、なぜエヴァンゲリオン初号機は、碇シンジしか操縦できないか、同弐号機はなぜ、アスカしか操縦できないのか。同零号機はなぜ、綾波レイしか操縦できないのか。ここに原点があるような気がする。
エヴァンゲリオンは、別名、「汎用人型決戦兵器」と呼ばれ、色々な状況において活動できる兵器ではあるが、汎用であるのは活動できる状況設定の話であって、運転者は碇シンジただ一人であることを考えれば、その専門性は異常に高く、その絶対性故に、全く汎用的ではない兵器だと言える。
エヴァンゲリオンの事例がピンとこない人に用に、車の話題に置き換えることもできる。
車を運転する人ならば理解してもらえるが、世に車は、AT車とMT車の二種類ある。日本で発売されている車の99%はAT車だと言われ、今ではAT車専用の運転免許も多い。つまり、AT車は汎用性が高く、MT車は専門性が高い。
車を特定の一人だけが運転できる“特定の機械”という位置づけならば、それも良かろうが、機械という性格上、誰であってもそれを運転できた方が、都合が良い場合が多い。誰もが運転できる車が望ましいと考えれば、AT車を選択することが有効だ。
自分一人だけでなく、家族も含め、不特定多数の人間が運転する機械が車なのだから、下位互換とでもいうのか、一番レヴェルが低い者に合わせて、機械を設定することが、より多くの汎用性を持たせることになる。
日本では、このたとえが1番ピンとくるだろう。
車でさえAT車のように、広く誰もが運転できる機械が求められている。ましてや兵器ともなれば、どれだけ複雑な操作が必要だとしても、たった一人しか動かせないとなれば、兵器として基本的な条件において、欠陥品と言わざるを得ない。
物語は、創造物であるからこそ、登場人物に絶対的な価値を付与させるために、「君だけ」「あなただけ」という修辞を多用するが、ファンタジーでは正義である絶対的価値観は、現実を反映していない。「~だけ」という言い方は、相手の自尊心を充たす詐欺的言説であって、現実を反映していない。恋愛感情のように「誰でも良くない」という価値観こそ異常であって、現実社会は常態として「誰でも良い」社会となっている。
ここで考えることは、誰かではなく、誰でも良い社会ならば、それを逆手に考えて、誰もがその場にあって、周囲から期待される最低限の働きができるように、平時の段階から思考したり、訓練したりすることの必要性である。
各種マニュアルとは、誰もがその特殊な状況にあっても、最低限の働きができるように書いたものである。マニュアル人間というと、ダメ人間の見本のように否定的な価値観で使われるが、ダメなのは人間ではなく、状況に適さなかったマニュアルの方であって、災害時にあっては、どんな時にあってもマニュアル人間となることが求められるし、マニュアル外の状況下にあっては、臨機応変な対応が個人に求められることもあるだろうが、これを最初から期待して、マニュアル作りをおろそかにしてはならない。
物語にヒーローやヒロインはつきものだが、現実社会では最初からヒーローの出現を前提に、話を進めてはならない。結果として、誰かがヒーローになることはあっても、それは結果論であって、最初からヒーローを期待してはいけない。
なぜこの様なことを思うようになったかと言えば、災害対策マニュアルの話を、議員仲間と話していたときに、その場にスーパーヒーローがいれば、マニュアルなど必要ないという話から始まった。無論これは反語だ。スーパーヒーローなど、現実にはいないのだから。マニュアルは必要だと言う、私の主張である。
つまり私が指摘するのは、個人の優れた才能に大きく依存した団体は、もはや組織ではないと言うことだ。人間である以上、そこに能力の優劣は存在する。
しかし、組織として期待されるのは、個人の能力を基礎にしつつも、最終的にはチームとしての機能を発揮できることが、組織が組織たる所以と言えよう。
優秀な者は優秀な者として働き、劣った者は劣った者であっても働ける場所で働き、組織に貢献する。
かの有名な孫子も個人の能力に頼ることなく、組織の勢いを重視すべしと説いている。
「政治家など、誰がやっても同じ」
冷めた国民は、結局の所、誰がやっても変わらないという現実をよく知っている。
2012年04月18日