田中けんWeb事務所

江戸川区議会議員を5期18年経験
巨大既存権益組織に斬り込みます!

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日刊田中けん

「私は保守だ」と名乗る滑稽さについて

 最近の私の問題意識は、分類と数との関係にある。
 なにか数学的テーマのように感じるかも知れないが、極めて政治的テーマだと思って、一緒に考えていただきたい。


 例えば日本人の血液型は、よく占いなどに多用され、重宝に使われる。占いなどは、非科学的な話のネタにはなるが、信じるに値しない。
 ただし、このような分類が可能になるのは、日本人のABO型による分類が、A:O:B:AB≒4:3:2:1となっていることに起因している。
 ちなみにアメリカ白人の場合、A:O:B:AB≒8:9:2:1の割合である。


 つまり分類上、並列で比べるサンプル数は、可能な限り等しい値に近い方が望ましいのだ。アメリカよりも、日本の方が、血液型分類に興味関心を示すのは、その分類が比較でいえば平等に近いからであって、なかなかこの様に、分布している民族は少ない。


 滑稽なたとえだが、この様な例はどうだろうか。
 地球上における地球人と宇宙人の割合について考えてみよう。地球上に存在するのは、ほとんどの地球人のはずだが、この場合、ことさら「私は地球人だ」と主張することに何の意味があるのだろうか。


 これと同じ事が今、頻繁に政治の世界で行われている。
 今、殊更「私は保守だ」と言う人たちがいる。確かに、日本には、社会主義や共産主義を標榜する人たちはまだいる。しかし、ソ連が崩壊し、中国が共産主義という名の一党独裁による資本主義化する中にあって、既にもう、革新だの、左翼だのという言葉は有効性を失っている。
 「私は保守だ」
 そう声高に言うのならば、更にその保守が保守たる所以について語らなければならないのだが、その伝播力が圧倒的に弱いために、私にはつまらない物言いにしか聞こえない。

 「私は○○だ」
 この様な主張は、それを主張する者が少数派に属するからこそ、より強く輝くのであって、「私は保守」という主張は、私は地球人だとか、私は日本人だのように、母集団における絶対多数に所属しながら、それを声高に主張するだけの行為に過ぎない。当たり前なのだから、それを誰も否定することもないので、当の本人が調子づく。
 その主張がそこで止まってしまえば、「当たり前の事を、何をムキになって言っている」と、滑稽に見えてしまう。


 つまり「私は保守だ」という主張は、保守では無いとレッテル張りしたい他者にマイナスの価値観を押しつけたいときに、よく使われる。または、保守という概念にプラスの価値観を感じている人たちの間で、「私こそ、保守の中の保守」というように、自分たちこそが優れているというアッピールの時もよく使われる。
 同じ価値観の者同士が集まった場合、より過激に、より先鋭的に動いた者が偉いという風潮は、既に過去の左翼文化の中で実験済みだ。その結果、より活動的な者が、活動的でない者たちを、内ゲバとして“粛清”してきたのが、負の左翼文化だったことは、周知の事実だが、思考回路的には、保守もそれほど変わらない。保守の本家争いをしようという発想自体が、急進主義者を尊ぶ価値観でアリ、そのような急進主義を信奉する者ほど、その急進的思考には至っていない“民”を、内心、愚民として蔑む思考と裏表の一体物になっている事実を、当の本人達は気がついていない。
 「私は保守だ」
 そこで主張が止まってしまうから、思考が停止するのだ。今やそこから先が重要なのだから。


 私から見れば、政界ではほとんど全てが保守に分類される中にあって、原発について、所得補償について、競争社会について、格差について、などなど、大きく価値観が別れるだろうテーマについて、自分がどこに所属するのかを論じることが、自分の政治的立ち位置をハッキリさせることにつながるのだと確信する。


 それを十把一絡げにして、右だ左だ、保守だ革新だなどと、対立軸を設定してみても、それは相手を貶めるために、便利だから使っているようにしか見えない。

 今、どんなに民主党の評判が悪いからと言って、単純に民主党を「左翼政権」のように言うこと自体、何も考えていないレッテル張りなのだ。民主党を批判するのならば、簡単なレッテル張りに流れずに、もっと違った批判を展開してみてはどうだろうかと、私などは思う。
 たとえば、「マニフェスト違反だ」などは、有効な批判の一つとなる。これは政策の是非ではなく、政策の実現能力が欠けているという批判である。なおかつマニフェストに書かれてもいない政策(増税や外国人参政権)の実現に向けた活動には、忠心となって動いている。これも、逆の意味でマニフェスト違反と言わざるを得ない。
 民主党に対する批判とは、単に政策批判では無い、党体質そのものに対する批判になろう。それを「左翼政党」とレッテル張りしただけでは、批判する側の見識が問われてしまうのは当然かと思う。


 政治はわかりやすい分類から、わかりにくい分類へと移行した。本当はわかりにくいのではなく、ほぼ等しく二分される有効な対立軸を設定できていないということだ。だからこそ、今は個別の政策に対する立場の違いを明らかにしなければならない。増税に賛成なのか、反対なのか。政党として集うからには、その中でも、政党が政党になる神髄としての政策は何かを常に問い続け、それ以外の政策については、ある程度の自由意志が尊重されることが、より大きな集団となることとして求められるのだ。


 今、日本の政治は、小選挙区制という不幸な制度によって、同じ政党でありながら、政策が全く違う人同士が一緒に集っている。これは政党政治に対する限界ではなかろうかと思う。
 民主党には、執行部が増税路線であり、小沢グループといわれる非主流派は増税反対路線である。
 自民党には、TPPに賛成する議員もいれば、反対する議員もいる。


 同じ政党にいながら、特に大政党における融解現象は止めることができない。今の有権者は、単純に所属政党で、政治家を選べない時代になっているのではないだろうか。


2012年05月15日