新自由主義に毒されていくスポーツ
2月12日のIOC理事会でレスリングは2020年五輪での実施が確定する「中核競技」から外れた。これについては、日本国中に衝撃が走った。この現象は理事会のメンバーが、人口比や国別数に比べ、ヨーロッパ人に偏っているからである。今やヨーロッパ人が勝てないスポーツは、ヨーロッパ人から愛されないスポーツとなり、必然的に排除される宿命を持っていた。
理事会のメンバーの国籍は以下の通りである。
ベルギー、シンガポール、ドイツ2人、モロッコ、英国、オーストラリア、南アフリカ、スェーデン、スペイン、ウクライナ、グアテマラ、台湾、スイス、アイルランドの計15名である。
理事の中には、アメリカもフランスもロシアも日本もギリシャもいない。この人選を見て言えることは、IOC理事会とは、とても民主的に選ばれた団体とは言えず、「私的サークル」の域を出ない“いかがわしい団体”の可能性を否定できない、ということだ。
そこで、この問題が以前から指摘されていた事実を明らかにするため、エドワード・ルトワク「ターボ資本主義」(1999年初版)に書かれている「商業主義に毒されたスポーツ」の具体例を引用する。ちなみに文中に出てくる“ターボ資本主義”とは、「強力な新自由主義」と同義で理解していただければ結構である。
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(中略)
あらゆるスポーツの中で、長距離競争ほど商業化に向かないものは少ないと思えるかもしれない。競技場の中で行われるものではないので、観客にチケットを売りつけることはできないし、チケットを買わない客を排除することもできない。スポンサーを探すことはもちろんできるが、ゴール以外にはテレビで中継しても面白い場面はない。こうした障害があっても、競技に勝った選手が勝者になるという、どのスポーツにとっても基本中の基本のルールを反故にしてまで、商業化が進められている。問題は、ケニアの高地に住む選手が強すぎる点にある。
(中略)
ケニアの選手が走者として素晴らしいことは間違いない。だが、深刻な問題がある。みな、口数が少ないのだ。英語をほとんど話せなかったり、最低限度の情報しか提供しない。テレビ局の担当者は、「ケニアの選手がどんな人物だかわからない」し、「話も通じない」ので、「物語」にならないと苦情を言う。当然ながら、長距離競走でマスコミが注目するのは、レースそのものではない。選手の人間像であり、汗まみれの選手のインタビューなのだ。結果は悲惨であった。マスコミがレースの模様をあまり取り上げなくなった。そうなると、賞金を提供するスポンサーにとって問題は深刻だ。この結果、主催者はジレンマに陥った。すべてのスポーツの基本的なルールを放棄するのか、それとも、スポンサーを失うのか。現在の価値観から考えれば、結果がどうなるかは考えるまでもない。
(中略)
したがって、ケニア人選手を排除するのは、それによってスポーツから資金が入ってくるのだから、正しい決定である。言い換えれば、経済とは本来無縁な活動からでも、資金が入ってくるようにすることが、他のすべての点よりも優先される。当然ながら、この原則は長距離競走よりも、さらに言うならすべてのスポーツよりも、はるかに大きな範囲に適用される。
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実際にケニア人選手を排除する方法は、巧妙であって、一見するとわかりにくい。
しかし、出場するケニア人選手の数を制限したり、アメリカ人選手だけには2倍の賞金を出したり、5人一組のチームにしか賞金を出さないようにして5人分の航空運賃を負担できないケニア人選手を排除したり、そもそも最初からアメリカ人選手にしか賞金を出さないことにしたりと、アメリカでのマラソン大会は、大いに商業主義に毒され、ケニア人を排除し、アメリカ人を優遇してきた。
所詮、スポーツとはこのような「興行」に過ぎない。
2013年02月14日